ねこだまり



本から顔を上げて振り向けば、笑顔。

「リタ、いつからお風呂に入ってないかしら」
「げっ」













よたよたと壁に手をつきながら進む。
所謂寝巻だとか部屋着だとか言われる上着や履物を外した軽装。そして宿に用意されていた部屋履きをぺたぺた鳴らしながら進む。
足取りは重い。重すぎる。
魔力をからっぽまで酷使した時と似ている。
ああ。だるい。
小脇に抱えられて連行された先は、湯殿。
全部洗われた。
全部だ。
頭のてっぺんから、足先まで、全部。抵抗の意思を示したが、力の差は圧倒的だった。片手一本にさえ負けたこの屈辱。
そして訴えたら勝てるレベルでもちゃもちゃと洗われた。
何より、泡まみれにされている途中、その泡まみれにした張本人が異様に楽しそうだったのが、すごく腹が立つ。
そのくせ、あたしを湯船に浸している間の会話や、終わって髪を乾かしてくれている時に触れる掌が、どうにも、変な感じだった。
はい、おしまい。
そう言われて解放された時の顔といい、赤い瞳が、なんだか、とても。

「なんなのよあいつ……」

辿り着いたのは今日の宿泊部屋。
もたりもたりとベッドの上に乗り上がる。読みかけの本を枕元に適当に集めて、場所を確保。
真っ白なシーツの真ん中。倒れ込んだ。
まだ日は高い。窓が開いていた。陽の光と一緒に、風が部屋に入ってくる。
ぼんやり。緩く揺れたカーテンと前髪を見た。
これだから、お風呂は厄介なのだ。
さっぱりするのも、きれいになるのも、嫌いってやつはそういないだろう。
でも如何せん。少しふやけた指先と、入浴剤の匂い。シャンプーの残り香。奥の奥からあたためられた身体。
どうしても、眠くなる。眠りを強要される、みたいな。そんな。感じ。

「ぁー……」

瞼が重い。魔導書が読みたい。腕を上げるのも億劫。研究がしたい。視界がぼやける。なんでこんなことに。
ぐるりと回る思考も蜂蜜みたいにどろりと緩慢。
ほどなく下ろしてしまった瞼と、最後に聞いた気がするのは、高い音の鳴き声。
















ノックした先。気配があるのに声が返ってこないことは多々あるから躊躇いなくドアノブを捻った。
その気配の持ち主はどーせ何だかよくわかんない魔導書でも読みふけってるんだろうなー、って思って入った室内。

「おやぁ?」

丸まって眠る子たちを見つけた。
部屋の奥でカーテンが揺れている。開いた窓。なるほど。
黒。灰。白。サバトラ。茶トラ。三毛。ブチ。サビ。雲。長毛。短毛。カール。垂れ耳。ボブテイル。
ベッドの上にもぎゅっと集まった毛玉たち。

「リタっちがお昼寝とは珍しいわねー」

その中心で丸まる、一番おっきいくせしてちっさくて細いチョコレート色の猫。
リタっちを囲むように、猫、猫、猫、猫、子猫、寝子。リタっちってばいつの間にまたたびスキル得たのよ。
ところでねこねこウエイター姿の写真がとある筋にとっても高く売れるって知ってた? いやおっさんは止めたのよ。止めたんだってば。
撮り手と買い手を潰そうとした二対の手の方を。青年に後を任せて回収するのがどれだけ大変だったか。
いやぁ、修羅ってああいうのを言うのね。怖いわぁ。……ほんと、怖かったわ。
それにしても。

「起きないね」

部屋に入ってから数匹の猫がこちらをちらりと見たものの、真ん中の猫はすうすう寝息を立て続けている。
目的だった遺跡の情報もこれじゃ聞けない。ううん。どうしましょっかね。
ッハ。
その時俺様に天啓下る。

「これは絶好のチャンスというものではなかろうか、そう、いつもの報復としての」

主に焦げる的な意味で。
熟睡してる時にびっくりして起きると言うのは中々に悪戯心満載の仕返しではなかろうか。うん。そうしよう。

「ふっふっふ、俺様を焦がした罪は重いわよ」

抜き足差し足忍び足。
ここまで独り言いってりゃ意味ないかもしれないけれどこれは気分の問題なのだ。
そうして、一歩。

「えっ」

胸元で丸まっていた白猫と、背中に寄り添っていた灰猫が、こっちを向いた。
あらやだ。誰かさんにそっくり。
それに続く様に身体を起こす猫たち。
どいてくれるっての? なんて思っていた時期が一瞬だけありました。
あれ。
気付いたら、如何にも臨戦態勢の猫たちが、前に。

「えっ、なに、ちょっと」

本能って大事。
あと数瞬逃げるのが遅れていたら、おっさん傷だらけだったわ。

























カロルからお昼ご飯も食べていないことを聞いた私は、部屋の扉を開けた。

「リター? ご飯食べないとだめですよー?」

もっと痩せちゃいますよ。
そう言いながら猫背になった読書スタイルがあるであろうベッドへと視線を向けて、時が止まった。
アワーグラスを使ったわけじゃありません。あまりに衝撃的なことが起きると人は思考も行動も止まってしまうんです。
いました。いたんです、私が探していた人は。
いたんですけども。
何ですかこの楽園は。
もふもふです。一言で言うならもっふもふなんです、わかりますか。あと凄く可愛いです。わかりますね。
リタの寝顔なんて元々可愛いものに、猫たちがいっぱいなんです。可愛くないわけがありません。
知らず、慄いていたのか、リタを囲んだ猫のうち一匹、背中に寄り添っていた灰色の猫が私に視線を向けてきました。
はっと、佇まいを正します。

「違います、私は邪魔をしに来たわけではありません」

ここは誠心誠意、対応しなければなりません。
どうにかして、どうあろうとも。あの近衛兵たちに許可を得なければならないのですから。

「お願いがあります。その場所を譲ってください」

深々と頭を下げて十数えた後に姿勢を戻せば、猫たちは誰もこっちを見ていませんでした。
歯牙にもかけないとは、このこと……!!
しからば、一歩近づく。すると、リタの胸元で丸まっていた白猫が身体を起こして、ひと鳴き。
なるほど、わかりますよ。その如何にも不機嫌そうな声。譲らないと言っているのでしょう。

「そこをなんとか!」

握り拳を胸に、さらに一歩。
白猫がさらにひと鳴き。周りの猫たちがぞろぞろと身体を起こし始めます。これは、全面的に争う形ですか。
なるほど。けれど私も退きません。なぜならそこにリタが居るから。寝顔を間近で見たいから。一緒にお昼寝したいから。
昔の私なら言葉による説得を試みたでしょう。しかし今の私は違います。色々な物も、事も、見てきました。

「ふ、ふふふっ、それなら、それなら仕方ありません」

猫たちを前に、私はもう一度扉をくぐり、廊下へと、来た道を戻った。
敵前逃亡?
いいえ、これは、戦略的一時撤退。
再び部屋に入った私の手には、あるブツ。
猫たちの視線が、大多数の猫の目が、変わったのを見て、勝利を確信しました。

「わかりますか、これは交渉です」

おそらくはトップであろう、白猫と、灰色の猫。
二匹に視線を向けて、言う。

「正当な報酬です」

今私の主張を跳ねのければ、報酬はもちろんない。
それすなわち、私の手のうちにあるものを欲している、大多数の猫たちの暴動すら引き起こしかねない。
そんなつまらないことを、するわけがありませんよね?
じっくり一分。
見詰めあった瞳をそらしたのは、白猫が先でした。
ゆっくりとリタの頭上の方へと移動して、丸まったのです。
つまり。

「ありがとうございますっ」

私の勝ちですね!!
























「おーい、買い物行くけど何かほしいもんあるかー?」

買い物リストに目を通しながらぞんざいにノック。返事もないくせに気配はするもんだからドアノブを捻れば、手ごたえなし。
鍵がかかってないっつーことで、開けた。

「お」

そして見つけたのは、ベッドで丸まる猫と姫さん。

「珍しいこともあるもんだな……、いや珍しくもねぇか」

二人が、エステルがリタに添い寝をしたがるって言うのは割とよくある光景だ。
今回いつもと違う点があるとしたら、何故か猫がやたらといること。あーあ、窓開けっぱなしにしてっから。
白猫と、灰猫。その二匹とエステルがリタの近くに。他の猫たちはそれをやんわり囲むように、ベッドの端や床に丸くなっていた。
なんつーか、近づいたら引っ掻かれそうな感じだな。
そこで俺は気付く。足元にある白い皿。そこに残ったでかめの魚の骨。焼き魚が、なんでここに。

「女子部屋の前で何をしているの?」

首を捻っていると、後ろから薄い気配と共に声。

「別に何もしやしねぇよ」

背を逸らせてそちらを見ると、予想通り、ジュディ。
いつものようにゆるりと笑って、俺の隣から部屋の中を見て、さらに笑みを深める。
ジュディに指差す先は、チョコレート色。

「あの猫を風呂につっこんだのってやっぱジュディか」
「ええ、でも引っ掻かれなかったわよ」
「そりゃジュディはな……」

他の誰かがやろうもんなら、やる前に焦げる。あと出来んのは一緒に寝てるあの姫さんくらいだろう。
頬に手をあてたジュディは小さく息をついた。

「どうしたんだ?」
「羨ましいなって、思って」

それが誰のことを示してるのかなんて、わかりきっている。
いつものように冗談みたいに。そのくせ本当に残念そうに言うのが、何故か笑えた。

「やればいいじゃねぇか」

もう一度示した先。
灰色の猫が、こちらを見た。

「反対側、空いてるだろ?」






















叫びそうになった。
気合いとか根性でそれを呑み込んで、状況把握のために後ろを確認しようとして。
今度こそ叫んだ。
いや、叫ぶ前に人差し指で口を抑えられて、何とか未遂に終わった。
人差し指を辿れば、やっぱり、どう見たって、青色で。
口をわなわなさせながらもう一度、ゆっくりと正面を見れば、どうしようもなく桃色で。
急いで首を回す。

「ちょ、な、こ、ぁ……!!!!」
「添い寝」
「っ!!!!」

ちょっとマジなんなのよこの状況あんたたち何してんの。
っていうのをほぼ空気で豪速球したら一言で長打された。ほんと腹立つ!!!!

「ほら、お姫様が起きちゃうわよ?」
「ぐ」
「それに、まだ眠ってても大丈夫」
「ぅ」

下手に動けないし、抗議も碌に出来ないしで、あたしは耳元で小さく笑う声にやっぱり腹を立てる。
どっと疲れた。寝てたのに、起きて数分も経たずにまた疲れるって何なの。
息を長ぁく吐き出して、目の前の寝顔をちょっと直視できないから、頭の上を見上げた。
にゃあう。
白色の猫が、鳴く。灰色の猫が、おでこに鼻先をくっつけてきた。
力が、抜ける。
また丸まる二匹を見て、もう一回、息を吐き出す。
正面を見ると、すやすや眠る寝顔。
まだ日は高い。窓が開いていた。陽の光と一緒に、風が部屋に入ってくる。
ぼんやり。緩く揺れたカーテンと前髪を見た。
あー。
言うか言わないべきか、悩んで。

「おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」

返ってきた言葉に、また、瞼を下ろした。


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