髪結い



開け放たれた窓。
ぼんやりと窓枠に肘を乗せて凭れ、空を眺めていたのは今夜の天気を予測するためなのだろうか。
風が吹いた。
浚われたのは、彼女のその髪。
一本一本が淡く煌めくその様子は、まるで風が色を持ったような、そんな。
見惚れたと自覚するのは、目があった瞬間。












きっと私の頬は手元にある果実のように色付いていることだろう。
瞬間的に目を伏せたその間際、彼女の瞳に面白そうなものを見つけた子供のような色が灯ったことに気付いてしまった。


「んー?」


気付かなくったって、この声でわかっただろう。
どんどん近づいてくる足音。ほら、視界の端に白い軍服。目を、閉じた。
ああ。何をしているんだろう私は。馬鹿みたい。
珍しく一人で食堂にいる彼女を見つけて、彼女を見つけたからといって部屋に入ったことはもう覆らなくて、だからと言ってぼおっと空を見上げるその背中に掛ける言葉も見つからなくて、おやつにでも、と手にした果物。
そう、それをきっかけにして話しかけようとした。きっかけという何かがなければ、私は未だに彼女に、エイラさんに話しかけることが出来ないでいる。
案外ちかくて、至極とおいひと。
エイラさんと私の間にある隙間を、果物で繋いで、そうして、この静かな空間を破りたかったのに。
一言だけでいい。
一言あれば、きっと。
息を吸い込んだ。
そして、風が吹いた。
頑張って向き合おうとしたのに、それがどうした、どうして私は床と、瞼の裏と睨めっこなんてしているんだろう。
じんわりと、瞼が熱くなる。頬とは別の熱さ。どうしよう。泣いてもどうしようもないのに。


「なぁにしてんだよ」


手元にあるはずの感触がなくなる。指先に感じた温度は、それはたぶん。
ぱっと。反射的に顔を上げて、瞼を上げて。


「耳まで真っ赤だぞー」


赤い赤いベリーを口に運びながらエイラさんは笑う。
赤い赤い私はどうすることも出来ずに、どうしたらいいか解らずに、固まって。


「うまいなこれ」
「ぁ、実家から、です」
「あー、色々くれるもんなー」


それを気にせず、ボウルの中のベリーが一つ、また一つエイラさんの口に消えていく。
その一粒一粒に私の赤さだとか熱さだとか、そう言うものが移って消えていくように、ゆっくりと落ちついてきて。
話題が赤から赤へ変わったことにほっとしていた。


「で、何でこっち見てたんだ?」


使い魔を彷彿とさせる意地の悪い、表情。
気にしていないふりをして、近づいた、ほっとした獲物を狙う狐の狩りとそっくりだと、頭の隅っこで思う。


「かっ」


もちろん、頭の大部分はどたばたとしていて、それはもう、何も、言い訳なんて出てくるわけはなくて。
どたばたとしていなくても、この人を納得させるような言い訳なんて考えつく自信なんて、ないけれど。
だから私はいっそのこと、素直に、正直に、吐き出すことしかできなかった。


「髪が、綺麗だな、って、思ったんです!」
「髪ぃ?」


返ってきたのは素っ頓狂な声。
それに拍子抜けしていると、とても不思議そうな顔。


「そんなんで何で赤くなるんだ?」
「っ!」


ま、いいけどさ、って、笑われて。
笑い事じゃない。エイラさんにとってはそうでも、私にとったら、笑えるようなことじゃ、ない。笑いあえるようなそんなこと、出来るわけない。
ぐっと口元を引き結んで、その思いが空気に触れないようにする。
エイラさんは自分の髪を摘んで、見ていた。


「キレイ、ねぇ……」


その視線は、いつもの興味が無さそうな色。
光の加減で金にも銀にも見えるそれは、とても素敵なものなのに。


「エイラさんの髪、真っ直ぐで、綺麗なプラチナですよね」
「そうかぁ?」
「長いのに、痛みも無さそうですし」
「よくわかんないなー」


北欧にはその髪色は珍しくないのかもしれない。けれど私にとったらその色は、エイラさんの色。
癖を知らない白金は、持ち主の指先を離れてまた背中に下りた。


「何で、伸ばしてるんですか?」


ひどく几帳面なところがあるのに、面倒なことを嫌がるこの人が、手入れが楽とは言い難い長さに髪を伸ばしているのが気になっていた。
そう問えば、それこそ不思議そうにして。


「いや、切ってもいいんだけどさ、スオムスにいた頃から切るなって周りに言われて」


周りが懇願した理由は、一つしかないのに。何故かなんて、これっぽっちもわからないって、そんな顔をして。
自分に興味がない。とでも言えばいいのか。エイラさんは、時折、そんなところがある。


「綺麗で、羨ましいです」
「リーネの髪も綺麗だろ」


そうやって、誰かに置き換える。
自分を見ない。自分じゃない、誰かを見る。周りのことにはとても聡いのに、自分のことは見もしない。


「私のは、癖っ毛ですし、結ばないと邪魔になるんですよ」


それこそ、真逆。
ほら、貴女が言った綺麗と、皆が言う綺麗はこんなにも違う。
そう伝えようとしても、エイラさんはやっぱり不思議そうな顔をしていた。


「ふぅん?」


とん、と。
足を踏み出したエイラさん。
一歩、二歩。
その足が埋めるのは私との距離。
え。
え。え。
無意識に後ずさろうとして。


「ちょっと動くなよ」


意識的に、止める。止められる。
もう動くことは、私は出来ない。
とん、と。
距離が近づいて。近づいて。近くて。近い。


「ミルクティーみたいなあったかい色だし」


横を過ぎる声。
視線を前に固定させている私の視界から、エイラさんが消える。
私は混乱していた。心臓も、思考も、呼吸も、全部。それでも聴覚だけは頑張って音を拾っていて。


「柔らかいし」


髪に、お下げに触れていると理解するのにとても時間がかかった。
それと同時に聴覚に総動員していた神経が、今度は触覚にも配分される。
たぶん、リボンを解かれた。お下げの先と、項の辺り、と。
見えないから、と、目を瞑って、耳と、背中に集中して。
それが良かったのか、悪かったのか、たぶん悪かった。
項に微かに触れた低い体温に、肩が跳ねる。心臓も跳ねる。


「ふわふわしてて、綺麗に広がって」


髪が緩く引かれるのを、どこかぼんやりと感じた。
それをちゃんとわかっているけど、私は理解はしていないから、反応が出来ていない、そんな、感じで。
どこか手慣れた、手櫛。掬うようにお下げの根元に通った指が、絡まないように、丁寧に、髪を梳いていく。
何度かそれを繰り返して、広がったであろう、私の髪。


「あ。甘い匂いもする」


追い討ちを掛けられた気分。
聴覚でも、触覚でもない言葉に、私は振り向いてしまう。
やっと動いた。やっと動けた。
やっと見ることが出来た。


「ほら、どう見たってリーネの髪の方が綺麗だろ?」


私の髪のひと房が、まだエイラさんの手元にあった。
指に緩く絡んだそれは、口元にまで近づけられていて。
ただ、ぱちり、ぱちりと、瞬きを繰り返して、私はそれを見ていた。
エイラさんの手元にあるそれが、私のものだと思えなくて。


「御伽噺のオヒメサマみたいな」


いつの間にか息を止めていたとわかったのは、それを聞いてひゅっと息を吸い込んだから。
何かを言おうとしたのか、ただ苦しかったのか。自分のことなのにわからない。
何を言えばいいのかすら、わからない。
オヒメサマ。誰が。誰のことを言っているの。


「リーネ?」


首を傾げたエイラさんの髪が、肩口から流れる。
指に絡んでいた髪が、離れた。












気がついたら、ブリーフィングルームにいた。
閉じた扉を背中に、そのままずるずると座りこむ。
わかってる。
わかってる。
わかってる。
そんなの、全部、わかってる。
そんな想いがないことも。そんな考えすらないことも。
私のことを考えていることも。私のことがわかってないことも。
誰が綺麗なのかも。
わかってる。
オヒメサマが誰なのかも。
全部。
きっと。
お姫様は。
闇夜でも輝く色をした髪の、あの子だって。
わかってる。
胸元で握りしめた手をじっと見つめて、唇を噛む。
余計なことを言わないように。言えないように。
解かれた髪が、視界の端に、見えて。
私は、目を瞑った。

















擦り抜けたふわふわした、持ち主の性格を表す様に柔らかい髪。
開いたままの扉を見て、丸くなっていた目を閉じて。
溜息を、吐き出す。


「そんな照れることねーじゃん」


私はただ、本当のことを言ったまでなんだ。


「あー……、謝んなきゃだめかこれ」


謝っていいものか、それともそれが裏目に出るのかすらわからない。
本当に、わからない。
オンナゴゴロとは、かくも理解し難い。


「誰かに相談すっかなぁ……」


天井を仰いでいた視線を、手元に戻す。
そこには。
小さな黒いリボンが二つ、揺れていた。



笑顔が見たかったんだ、よ

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