傍に



まあるい顔に、まあるくなった身体。ごろごろとのどを鳴らしていたこの子がふと顔を上げて出入り口を見つめること一分。
そこに現れたのは空色のパーカーと白金の髪をなびかせる人。
私の膝の上に乗っているふわふわした毛並みをみて、エイラさんは元々希薄な表情の色を一瞬だけ透明にした。


「おはようございます、エイラさん」
「ん、ああ、おはよ」


その隣に眠そうな子がいないことを不思議に思ったけれど、口にはしなかった。
首の後ろを触りながら食堂に入ってきたエイラさんはキッチンをちらりと見てから、私を見る。


「宮藤は?」


瞬きを一つ。
この人も同じようなことを考えて、そうしてそれを口にすることを選んだらしい。
少しだけ首を傾げて、答える。


「ハルトマンさんとバルクホルンさんと一緒に買い出しです」
「大尉、宮藤にお菓子とか買ってそうだな」


想像して、すぐにその光景が浮かんで口端が緩んだ。
そう。きっと、そう。そうしてきっと、隣にいる金髪の人に拗ねられている。
私のすぐそばまで来たエイラさんはしゃがんで、私の膝もとを見ていた。


「いい御身分だな、リーネの膝独り占めなんて」


耳が後ろに倒れてる。毛が逆立っているのがわかる。
さっきまであんなにふわふわして、ご機嫌だったのに。
まあるくなった瞳孔に映ったであろうエイラさんは肩をすくめた。


「ああもうわかったよ怒んなって」


立ちあがったエイラさん。
それを視線で追うまあるい瞳孔。


「コンセルティナ、だめよ」


私は、先ほどからずっと私の膝で暖を取っている使い魔の頬をくすぐった。
にゃあう。うん、いい子ね。


「お茶淹れましょうか?」
「いや、いい」


こっちをぼうっと見ていたエイラさんを仰いで問えば、瞼を伏せられた。
それも一瞬のこと。
すぐにいつもの悪戯っぽい笑み。


「今そいつの邪魔したらフシャーとかいわれそうだからな」


キッチンに向かう背中。
膝の上を見れば、こちらに瞳を細めて喉を鳴らしていた。もう。


「ツンツンメガネには怒んねーのか?」
「コンセルティナがですか? 怒らないですよ」
「……、なんだこの敗北感」


キッチンから聞こえる声に応えて、ふわふわの毛並みに掌を埋めて、お湯が沸く音、鳥のさえずり、静かな会話。
しばらくして、カタンと目の前に置かれたカップ。
甘く白い湯気を登らせた、ココア。視線を上げれば、淡い色の笑み。


「紅茶はリーネみたいに淹れられないからな」
「ありがとう、ございます」


甘いのがあまり得意ではないこの人が淹れるココアが、存外、とても甘いことを私はよく知っている。
カップを傾けてそれを少しだけ舌に乗せれば、ほら、甘い。
おいしいです。そう告げれば吐息のような生返事。
与えた厚意に対しての反応に、拒否以外の、感謝だとかそういうものにさして興味を示さない。この人は、こういう人だ。
椅子を引いたエイラさんは、そこに座ることはなく、座る部分に乗せられたのはあまり深さのない小さなお皿。
見れば、真っ白な、ミルク。


「ほれ、お前にも」


口端を少しあげたエイラさんの視線の先は私の膝の上。
ごろごろではなく、ぐるぐると小さく喉を鳴らしたその子の背を撫でて促す。


「コンセルティナ」


おまけに嗜めるように名前を呼べば、私を一度仰ぎ見て、とっても名残惜しそうに私の膝から隣の椅子へと軽やかに飛び移った。
机に凭れて立っているエイラさんは何も言わない。ただいたずらっ子のような視線で不満げにゆれる尻尾を見ていた。
ミルクにできた波紋はひとつ。ふたつ。みっつ。
回数を増すごとに波打つ間隔が短くなる。


「ふふん、うまいだろ、うまいだろう」


エイラさんの声に、ミルクを飲むのを止めて、椅子の足をぺしっと尻尾がたたいた。
それを見たエイラさんがさらに笑みを濃くする。


「猫舌のお前にぴったりな温度だろ」


ふ、と。
理解する。
彼女が手ずからミルクを用意しているのは、きっと。
この、甘い甘いココアと同じように。
エイラさんの、可愛い猫。
ココアを味わってもなお苦味を感じたのは、椅子をはさんで立っている人のカップから香るコーヒーのせい。そう思い込む。
そこまで考えて、上げた視線に捉えたのは、アメジストの瞳。
私は、この瞳が苦手だ。
誰よりもやさしくて、誰よりも残酷で。今みたいに何を考えているか誰にもわからない、あの子さえもわからないと言っていた、この色が特に、苦手だった。
けれど今の私には、その瞳を見てしまっても言葉をつむげる程度の勇気、みたいなものを、持つことができている。


「な、なんですか?」
「いーや、別に」
「気になります」
「んー……」


視線をはずしてコーヒーを口にするエイラさんは、語る気がないのか、言いよどんでいるのか、曖昧な声を出した。
その視線が一度だけ、ミルクにご満悦の子に向いたものだから、なんとなく、わかってしまった。
私が、この子を、喚んでいるのは。
私が、この子を、喚んでいたのは。
前は。
どんな時だったか。
たぶん、この人は、おそらく。いつも手を差し伸べてくれていた人は、きっと、知っている。
ココアを、一口。


「最近は、」


水面に移る自分と向かい合って、あの時の私と、今の私。
違うのは。


「最近は、よく、私が喚んでるんです」


一人でぐずぐずと泣いていたあの時とは。
この子が自分から出てきて擦り寄ってきていたあの時とは。
誰にもばれていないと思っていたあの時とは。
ひとりぼっちだと、思い込んでいたあの時とは。
違うから。


「ふぅん」


返ってくるのは、やっぱり気のない生返事。
の、ように聞こえる声。
知っている。
安堵の息が混じっていることを、自惚れかも知れないけれど、わかっている。
ちょっとした、好奇心が生まれた。


「エイラさんの使い魔は、そんなに喚ばないんですか?」
「ほとんど喚ばない。喚んでも、私以外がいると出てこないし」


人嫌いだから。そう小さく続いた言葉。
希少とされる固有魔法の中でも、類稀なるもの。それを宿すオーロラの化身。
私がその姿を、尻尾だけとはいえ見たことがあるといったら。この人はどんな顔をするだろう。
けれど、それは心にしまっておくことにする。とりあえず、今は。
あの子は。
見たことが、あるのだろうか。
にゃあう。突然の鳴き声に視線が集まる。そこには、小さなお皿に手を掛けた、足りないという顔。
エイラさんがため息をついた。


「おかわり要求とか、お前、マジでリーネの使い魔かよ……」
「す、すみません」
「いいけどさー」


特別だぞ、特別。そう言ってキッチンへと向かう背中。
あの子たちにはきっと当たり前。私たちには特別。
それがどういうことか、知っている。
いつの間にかこちらを見ていた、私に少し恥ずかしい思いをさせた子。
もしかしたら、私が何を考えていたかわかっての行動だったのかもしれないけれど。
めっ。にゃぉ……。
小さく叱って、キッチンに視線を戻せばこちらを見ていたアメジスト。


「そいつは、私以外に威嚇しないのか?」
「ええっと……」


躊躇う。視線を向ければ、ごろごろと鳴る喉。


「芳佳ちゃんに」
「ああ……わかる」


どうしてか納得されてしまった。
静かな時間は過ぎていく。




「私、猫に好かれないんですよねー」
「それ自業自得だろ」
「なんでですかー!」


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