雨宿り



アスファルトに出来た鈍色の斑点。
ぽたりと小さなそれは、次第にぼだりと大きなものへと変わり、増え、音を増し。


「雨……」
「うっわ、降ってきやがった!」


見上げた空は曇天。校門を過ぎた頃の青空が嘘のようだった。
降水確率は20%。それが通り雨だったら、尚更傘なんて持ってるわけもない。
ブレザーを着ていなかったことを悔やんだ。そうしたら、被せてあげられたのに。


「サーニャ、これ持って」
「えっ」
「走るぞ!」


持ってた薄っぺらい鞄を、銀色の頭の上に。ないよりましだろ。
サーニャの鞄を片腕で胸に抱え込んで、もう片方の手を伸ばす。
ぼんやり空を見上げていた彼女の、華奢な手を、握り込んだ。














「うへぇ、タイミング悪すぎだろ……」


マンションのエントランスに入って、振り返った外が雨脚を強めていて悪態をつく。
張りつく濡れた髪が気持ち悪い。掻き上げようとして、両手がふさがっていることに気付いた。


「濡れてないかー、ってことはないか」
「エイラより、は、大丈夫」
「そっか」


ちゃんと気にはしたけど、私に合わせて走ったせいかサーニャの頬は赤い。息も、少し上がっている。
即席雨避け鞄のおかげか、私よりは濡れていないものの、銀色に雫。紺色の制服は、色を濃くしていた。
ああ、なんていうか。
見てられない。色んな意味で。
自分の鞄と、サーニャの鞄を交換して、髪をかき上げて。その手がさっきまで何に触れているか気付いて。
ああもう。雫が伝う。


「とりあえず、タオルだな」


雨宿り。傘を貸す。
どちらにせよ、このままじゃ風邪をひいてしまう。
暗証番号を手早く入力した。




















「入って」
「お邪魔、します」


鍵を開けて、部屋にサーニャを招き入れる。どうせ誰も居ないから気にすることもない。
サーニャがここに来るのは二回目。きょときょとと視線を巡らせて、所在なさ気な姿に、少し頬が緩んだ。
そんなに緊張するところでもないだろうに。


「私の部屋、つきあたりを右、一番奥。さき行ってて」
「えっ」
「タオル持ってくから」


それだけ伝えて、リビングに置いてあった畳んである洗濯物からパーカーを抜き取って、脱衣所に向かう。
セーター着てて良かったっていうか、悪かったっていうか。吸水性抜群だなおい。
サーニャみたいな制服の生地じゃないから、どうにも歩く度に水滴が落ちる。あとで拭かないと。
セーターとYシャツを脱いで丸めて脱衣籠へシュート。っし、オッケー。
タオルが積んである棚から一枚とって、髪を適当に拭く。
パーカーを着て、一息。改めて、棚を見上げる。


「あー……、……新しいタオル! だな!」


うん。
















「サーニャ? 入るぞー」


自分の部屋なのにノックをしなきゃいけない状況に違和感を覚えながら、声をかける。
固さのある返事に部屋に入れば、所在なさ気に佇んでいるサーニャ。


「はい、タオル」
「ありがとう」


タオルを手渡して、髪を拭いているサーニャを横に、考える。
あったかい飲み物。やべぇ、うちコーヒーぐらいしかなくないか。あ、エルマ先輩用のココアが確かあったはず。なかったらホットミルクにすりゃいいや。
鞄は死守したから、中の楽譜とか教科書は大丈夫だろう。あ、ローファーも一応見なきゃだな。


「っくしゅ」


雨音以外に、耳を打つ、音。
そんなこと考えるより前にやることあるだろ私の馬鹿。
音の方に視線をやれば、少し震えているサーニャ。その制服は、色濃い。


「サーニャ、脱いで」


元々大粒の翡翠が、より丸くなる。
えっ、なんかおかしいこと言ったか私。
白い頬が赤くなり始めるのを目に、手を伸ばす。


「なん、えっ、なんで」
「制服、乾かさないと」


私だって着替えてるし。
このままだと風邪をひいてしまう。
乾燥機に掛ければそんなに時間はかからないだろう。
だから、脱いで貸して。手を差し出す私に、一歩、サーニャは遠ざかった。
首を傾げる私に、さらに一言。


「や、やだ……」
「えっ」
「やだ……」
「え、何で?」
「……いや」


何だこの拒否。
いやいやいや。風邪ひくだろ。濡れてるだろそれ。ほら、震えてる。寒いんじゃないか。
眉根を寄せて、ちょっと語気を強く。


「風邪ひくだろ」
「……」
「サーニャ?」
「……」
「ほら」
「やだ」


さらに一歩下がられて言われた。
いやいやいや。だから、風邪ひくってば。


「サーニャ」
「やなの」


サーニャが意外と頑固だと言うことを、私はこの前知った。
けれどここは私が折れてはいけない所だ。だって、サーニャが風邪をひいたら大変だし。私が辛いし。


「あー、じゃあ、うん」
「……」
「脱がすかんな」
「えっ」


一歩。大股で近づく。ほら、もう追い詰めた。
とりあえず手を取って、逃げられないように捕獲。
白い頬が赤い。もう熱でも出たのか。やばい、早くしないと。


「え、エイラっ!?」
「風邪ひくって言ってるだろ」
「や、やだっ」
「サーニャが風邪ひいたら、皆が悲しむだろ」
「そうじゃなくって」
「いーや、皆心配するぞ」
「だから」
「ほら、観念しろ!」


抵抗してくるけれど、私にとったらサーニャくらいの力はどうってことない。やんわり抑えつける。
ひとまず手首のスナップを外す。ていうかサーニャ、手首細いからこれ外さなくてもよかったな。
つーか、セーラー服ってどうやって脱がすんだ。と、至極今更なことを考えながらとりあえず視線を動かす。
そういや、ニパと一緒に居た胡散臭いやつが何か言ってたな。セーラー服を脱がすのにはある程度のスキルが必要なんだよニパ君。何だそれ。
あ、ファスナー発見。


「えい、えいらっ」
「んー、ちょっとじっとしててなー」


バランスを崩して座りこんだサーニャを支えて、私も座る。
ファスナーを開けて、あとは、あ、衿元もスナップか。タイはめんどくさいからそのままで。あとは、えっと、上から抜けばいいのか。
制服がすっぽり抜けて、銀色の髪がはらりと舞う。
インナーじゃ寒いだろうし、近くにあった部屋着のパーカーを被せて、できあがりだ。


「よし」


ひとり頷く。
いい仕事した。初めてにしては手早く出来たし。濡れた制服を軽く畳んで、改めてサーニャを見て。
俯いたその姿を。
その真っ赤になった耳を見て。


「ぁ」


自分が何をしたか、理解した。
顔が熱いなんてもんじゃない。指先まで熱を持って、その後すぐに冷えていく。血が引いていく音すら聞こえかねない。
どうしよう。
どうしよう。
いや、いや、いや。
ほんと、どうしよう。
だって、ほら、着替えさせるったって、もっと、違う方法も。そう、私が脱がせ……着替えさせなくたって、よかったんじゃ。
私が、部屋から出ていけばよかったんじゃ。いやでも、だったらなんでそう言わなかったのかって。だけどほら、そんなの言わなくても気付けよ。
うわ。
うわああああ。


「さ、さー、にゃ、さん?」


喉の奥から固まった言葉が転がり落ちた。
塊は、サーニャの膝もとまで届いただろうか。
少し薄れたものの、目元まで朱に色付いたサーニャが、こっちを見る。けれどそれも一瞬で、すぐにそっぽを向かれた。
こちらに背を向けて、袖に腕を通している。ああうん、ちゃんと着てくれ。
いやそうじゃなくて。いやそうだけど。
どうしよう。怒ってる。怒ってるよな。怒ってるって。
声をかけようにも、どうかけていいのかわからない。宙を掻く腕。さっきまでとんでもないことをしていた腕をつねる。痛い。馬鹿。
違くて。いやいや。うわあああもうううう。
ここまで辛い無言があっただろうか。いや、ない。
いっそ怒鳴られた方が楽だったかもしれない。いや怒られたくないけど。怒られてもいいけど。嫌われたくない。
雨とは違う水気で、視界が揺らめく。
どうしよう。
サーニャはこっちを見てくれない。
とにかく、何か言わないと。そう思って口を開いた私から出たのは。


「ふぇっきし!」


気の抜けたくしゃみだった。
おい。おい、私。それはないだろ。そこは違うだろ。
そういえばちゃんと髪を拭いてなかった。思い出したかのように肌を滑る水滴に気付いて。


「……エイラ」


しょうがないなぁ。って、顔の、サーニャがこっちを見てくれていた。
とっさに言葉が出なくって、瞬きをするしかない私の頭に被さるタオル。
優しく、撫でるように髪が拭かれていく。


「エイラが、風邪、引いちゃう」
「ぅ……」


タオルのせいで、サーニャの顔は見えない。
けれど。


「ありがとう、エイラ」


とりあえず、もう、怒ってはいないらしいから安心した。




雨音は、もう、遠い。



「あ、おかえりなさい、今日は早かったんですねぇ」
「ああ、予定より早く終わってな」
「ああ、そうだ」
「うん?」
「妹さんが女の子を部屋に連れ込んでましたよ」
「!?」

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