におい



「ミーナ?」


ノックをしても返事がなく、ドアノブを回したら鍵はかかっていなかった。
執務室というその名前だけ重苦しい扉を開ければそこは誰も居ない。
頭の中に浮かぶスケジュールにはこの時間はまだデスクワークのはずだ。
部屋に入って気付く。
どうやら無人ではなかったようだ。いや、無人だが誰も居ないというわけではなかった。
デスクの横。
伏せる大きな灰色の狼。
その紅い瞳が私を見ていた。
ミーナの使い魔だ。何度か会ったことがある。名前は、……ぁー。
まあいい。ソファに腰を下ろして得物を傍らに置く。


「お前は留守番か?」


問えば灰色の尻尾が緩く揺れる。どうやら留守番で相違ないらしい。
机の上には書きかけの書類。ああ。いたずら防止というわけか。
いつだったかルッキーニかハルトマンが、何か怒られていた気がする。
そのままの書類を見る限り、そんなに長く席をはずすことはないだろう。


「待たせて貰って構わないか?」


腰をすえてから聞くのもどうかと思ったのは言葉が出た後。
緩く揺れる尻尾。うむ。さすがミーナの使い魔、器がでかい。
いつものようにお茶が出てくるわけでもない。棚に私がいつも使っている湯呑があるが、如何せん淹れる気が起きない。
日本茶の手解きをしたのは私だが、流石というかなんというか、今ではすっかりミーナの方が淹れるのがうまいのだ。
どうにも舌が肥えてしまっている。自分で淹れたところでそれをミーナにも出す気はあまり起きない。
おいしいわ、なんて笑ってはくれると思うのだが、それも何だが微妙な気分だ。
自然に寄った眉間の皺を指で解くために下ろしていた瞼を上げて、眼を丸くする。
いつのまにか、狼が近くに来ていた。
ここまでの接近を気付かないとは気が緩み過ぎている。鍛錬がたりないな。
ここが基地で、ミーナの執務室で、そしてこいつがミーナの使い魔だから、とは、まあ、うん。
苦笑いを浮かべる。


「何だ?」


ゆっくりとさらに距離を詰めてくる狼。
少し緊張を覚えながら待つと、近くで見るとやはり大きさを実感する獣は私に顔を近づけた。


「……、何なんだ?」


すんすんと私の軍服を嗅いでいる。
犬の嗅覚はとてつもない。祖先と言われる狼なら尚のことだろう。
訓練後に風呂に入ったとはいえ、汗の匂いもするだろう。
嫌な顔をするかと思えば、狼は変わらずすんすんと鼻を動かす。
精悍な顔つきとでも言えばいいのか、この狼は綺麗だ。毛艶もとてもいい。鈍い色の被毛はさながら燻し銀といったところか。
つい手が動く。


「お?」


頭を撫でようとしたそれは素早くかわされてしまった。
たたん、と軽い足つきで距離を取った狼は私をじっと見ていた。撫でさせる気はないらしい。
ああ、そう言えば私はこいつに触れたことがないな。主に撫でられているのを見ることしかなかった。


「悪かった。もうしない」


先ほどと同じく苦笑いを浮かべるとまた近づいてくる狼。
再度鼻を動かす。
腹、首筋、腕。何かを確かめるような動き。
ふむ。よくわからないが気が済むまでさせてやろう。
眼の色が似ているだとか、そんなことを考えながら少しそうしていると、狼が視線を動かす。
釣られるように視線を動かすと、そこには変わらず閉じたままの扉。
音もなく私から離れて扉の前に座る狼。
首傾げて、しばらく。足音。


「出迎えか」


こちらを見ようともせず尻尾が緩く揺れた。
口端が自然に上がる。こういうのを見ると可愛いところもあるんだなと思う。
主を心待ちにする狼。可愛いじゃないか。
果たして扉を空けて現れたのは我らが隊長殿。


「あら、美緒来てたの?」


ミーナが私を見つけて口端を綻ばせる。


「ああ、邪魔してる」


片手を上げて答えれば、私が勝手に来たのに待たせてごめんなさいなんて、ミーナらしい。
そうして部屋に入ったミーナは、何故か尻尾でべしべしと床を叩いている狼に手を伸ばした。


「クラヴァッテ、ご苦労さま」


ああ、そう、クラヴァッテ。そんな名前だった。
クラヴァッテはミーナの掌を頭に満足したようで、尻尾が左右に揺れている。
灰色を数度撫でていたミーナの視線が私に戻る。


「お茶淹れるわね」
「悪いな」
「そんなこと言って、自分で淹れる気ないでしょう」
「ミーナの方が上手いだろ?」
「嘘ばっかり。どうせ面倒だったんでしょう?」
「違うさ」
「本当かしら」


そう言って苦笑するミーナが戸棚に歩きだそうとするが。


「クラヴァッテ?」


まるで足に纏わりつくようにクラヴァッテがミーナの歩みを止めていた。
ミーナの視線が自分に向いたのを確認するように。


「ウォン!」


狼が吠えた。
それは犬とは一線を画す哮り。
思わず肩が跳ねる。


「おお……」
「あ、ごめんなさい、びっくりしたわよね」
「いや、吠えたのを初めて聞いた」
「普段はあんまり吠えないんだけど……」


眉を下げるミーナの視線がまたクラヴァッテに戻る。
見れば、大きな前脚上げられ、ミーナの足に、まるで子供が大人の服の裾を掴むように、触れていた。
数度、注意を引くように触れる前脚。
ミーナの頬が緩む。


「もう、どうしたの?」


膝をついてしゃがみ、クラヴァッテの頭を撫でれば、揺れる尻尾。
狼は大きな体躯を押しつけるようにミーナに擦り寄り、その鼻梁を首元やらに擦りつけ、髪に鼻先を埋めていた。
目まで瞑って、大層ご満悦のようだ。


「ふふ、はいはい、いい子ね」


私に背中を向けているミーナの表情は窺えないが、声から嬉しそうな色を見る。
使い魔にこうされて喜ばない魔女はそうはいないだろう。
主にこうする使い魔も、珍しくもない。
そう思って黙って様子を見ていた私を映す紅い瞳。
人のように表情が変わったとは思わない。思わない、が。
ふん、と何故か笑っているように見えた。





















「というわけなんだ」


自分で淹れたお茶をすすり、一息つく。


「やはり狼とはいえ犬と同様甘えることはあるんだな」


不意に思い出した先日のこと。
その一部始終を語り終えた私は目の前の人物の様子に首を傾げる。


「ん?どうしたエイラ。変な顔をして」
「扶桑の魔女の凄まじさについて思考を巡らせてたんだよ……」


相変わらず考えていることがわからないが、いつもの無表情とは違い何とも言えない表情をしていたエイラはこめかみを押さえていた。
どうした、頭痛か。あれか、寝不足はいかんぞ。
コーヒーを一口飲んだエイラは吐き出す様に言う。


「それ、あからさまに少佐に向けてだろ」
「何を言ってるんだ?ミーナに甘えてたんだぞ?」
「いやそうじゃなくてさ……、ああもういいやそれで」


盛大な溜息。
何だ、今度は憂鬱か。あれだな、今日は雨だしな。
エイラは頬杖をついて私を見つめる。


「犬も匂い付けするんじゃねーの?」
「ふむ、主の匂いで安らいでいたというわけか」
「そうじゃねーよ……」


今度はテーブルに突っ伏。
おお、疲れか。いかんな、たんと食べて、ゆっくり風呂に入るのが一番だ。そうだ、これから風呂にでも行こうか。
そんなことを考えながらエイラの言葉を思い出す。
匂い付けといえば。


「確か猫は擦り寄って匂いを付けるというな」
「ああ……」


確か先日リーネの使い魔が相当一生懸命主に擦り寄っていた記憶がある。
その横で宮藤が羨ましげに見ていたが、残念だが宮藤の使い魔は犬だからな。


「猫はそうだけどさ」


エイラが顔を上げた。
どこか遠くを見詰めたような真剣な表情で呟く。


「逆は普通ないよな」
「逆?」


何の逆だ。
エイラは私の疑問を無視してさらに言葉を漏らした。


「主がしてくるってのはおかしいよな……」


その目は遠い。
まるで記憶を遡る様なそんな目だった。


「使い魔が猫だから?いやでも……」


ぶつぶつと言っていたエイラは少しして思考を打ち切ったのか、私を真顔で見詰めてきた。
おお、何だ。


「自分の使い魔以外のことなんてわかんねーよな、少佐」
「全くだ」


私たちは、力強く頷きあった。


ダメだこの人たち
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