先行投資



鼻腔をすっと抜ける、澄んだ匂い。
下ろしかけていた瞼を押し上げて、揺れる足に意思を持たせて、香の元へと向かった。
陽をいっぱいに取り込んだ食堂は、私の眼には少し眩しすぎる。
けれどその中で笑って、おはよう、と口々に伝えてくれる人たちの方がもっと眩しくてあたたかい。
言葉を返しながら、匂いを辿る。
硝子のティーポット。
ぼやけた湯気に曇らせた、その中に踊るのは緑色の葉の欠片。
レモングラスのハーブティ。お手製なんだよ。
対面に居る人の頬が、紅に染まっている。そっぽを向いたその横顔。眼鏡が隠しきれない視線の泳ぎ。
ああ。この匂い。
硝子のカップが前に置かれた。
水蒸気と一緒に立ち上る、香。
レモンのいい匂いだよね。
そう言って、私の舌に合わせた温度のティを淹れてくれる人が微笑む。
あっ、この前聞いたんだけどね。
音をたてないように慎重にカップに口を付けていた人が、言う。
お菓子と睡眠が大好きな、垂れ耳の可愛い、優秀な猟犬。彼女が言っていたと、言う。

       って、レモンの味らしいよ。

口に流し込んだ味を、私は舌でかき混ぜた。

















舌と上顎の裏。
擦り合わせて、小さくなった欠片は消える。
残った風味と一緒に呑み込んで、口の中はまた空っぽ。
午前の訓練が終わって、休憩中。部屋で一人空を見上げる。
慣れ親しんだ軍服と同じ色の、空を見上げる。太陽が眩しい。
手元で遊ばせた小さな箱がかこりと鳴った。もう残りが少ない。また送ってもらおう。
黒。白。赤。カラーリングがあの子と一緒。どちらも好き。そう思って頭を抱えたのはいつだったか。
誰にでも好かれるあの子と。何故かこっちじゃ誰も好いてくれない手もとのお菓子。
なんだよ。うまいのに。
かこり。かこり。
揺らした箱は、ほとんど空白。
残っていたうちのひと欠片も、もう私の口で解けて消えた。
ああ暇だ。あの子がいない。何だか最近一緒に居ることが増えたお下げのあの子と一緒に、買い物だという。
付いて来ちゃだめですよ。めっ。
何だか最近隊長みたいな目で私を見る、お下げのあの子に阻まれた。あの子もだめって言うから、なんだよ、もう。
午前の訓練はどこかの大尉に腑抜けていると言われた。当たってないのに。
補給物資の報告に行ったら隊長には、お昼前には帰ってくるわといわれた。私は知らなかった。
なんだよ。もう。
頑張れよぅ。
顔をしかめたくなる笑顔を向けられて、どっかのすちゃらかが言った。全部わかってるって。そんな顔。
なんなんだよ。もう!
瞼を下ろす。薄い皮膚越しの、血の巡り。
こつり。
耳が、鼓膜が、捉えた音。
こつりこつり。
聞こえてきたのは忘れ難い、靴の音。
窓枠から立ち上がって、扉へ向かう。
ほら。聞こえる。違いない。

おかえり。

名前を呼ぶ。身体が通る隙間だけ開いた扉から覗く、きみ。
丸くなった翠色。一番綺麗な翠色。

ただいま。

私の名前を続けて言って、柔く頬を緩めてくれる姿が、可愛い。
一番におかえりって言いたいんだ。例えそれが夜の明ける頃でなくても。
どこ行ってきたの。何を買ってきたの。聞きたいことはたくさんあるけれど、いっぱい言ってしまうときみが困ってしまうから。
たった、一つだけ。

楽しかったか?

一番大切なことだけ、聞いた。

うん。

頷いてくれるのが、嬉しい。
白いから、目立つ。頬を朱に染めるその顔から、とても楽しかったのがわかるから、私も嬉しい。
その楽しさを、私が一緒に受け取れなかったことが、少しだけ悔しいけれど。
視線を落としたきみが、ぁ、と小さく声を漏らした。
私の手の中。黒。白。赤。
翠色が、それを見ている。

食べてたの?

うん。頷いた。だって、それこそいつだって食べてる。どこでも食べる時もある。
数が限られているから、ずっと舐めているわけにはいかないけれど。
買ってきたものが入っているらしい紙袋に、きみが手を入れた。
ごそごそ。がさごそ。
首を傾げる。それを見る。
ごそごそ。がさごそ。ぱり。ぴり。
紙袋の中で、何かを破る音。
何。
そう覗きこもうとした瞬間。
瞼の裏に映る、まあるいもの。
反射的に身を引いて、ちょっと前まで私の顔があった場所に、そのまるいもの。
きみが突きだす様に、差し出した、それ。
棒つきの、小さな飴。薄黄色の、まるい飴。
瞬きをする。うん。飴だ。私が持ってるものと、同じだ。形や味は違うけど。
飴の先。きみの形の良い眉が、むっと寄った。
ああ。やってしまった。
もう一歩。私に近づいて、ぐっと差し出されたそれを、もう避けることなんて出来るわけがない。
むに。
唇に、押しつけるように。
棒つきの小さな飴。匂いは、レモン。
むにに。
もっと強く押し付けられて、口を開くことも出来ず、食べていいのかもわからず。顔が強張る。
どうしたらいいんだ。
きみが、飴を、私に差し出す。

口開けて。

仰る通りにお姫様。
開けたと同時に舌に乗る、味。鼻を通る、澄んだ匂い。
もごご。
飴。飴だ。レモン味の、飴。
それを食べろ、舐めろということだろう。飴に付いた棒を咥えたまま。やっぱり意味がよくわからずに、きみを見る。
もう棒から手を離してしまったきみが、また紙袋に手を入れていた。
取り出されたのは、小さな包装に包まれた、本当にたくさんの、飴。飴。飴。飴。
レモンにストロベリー。グレープにメロン。オレンジにピーチ。パイナップルにマスカット。
飴が、いっぱい。

お願い、聞いて。

頷く。何にも考えないで、頷く。
きみのお願いだったら、聞くよ。何だって、どうにかするよ。たぶん。私にできることなら。何だって。

それ舐めた後は、絶対にこっちの飴舐めて。

それ。黒、白、赤。私の手の中にある飴。
こっち。薄黄色、赤色、紫色、薄緑色、橙色、薄桜色、黄色、黄緑色。差し出された飴。
喋れないから、問いかける。首を傾げて、視線で問う。
何で。
きみはわかってくれるから。返事をさらりと口にする。

どうしても。

どうしても。
それならしかたない。それならしょうがない。
うん。頷く。
どうしたって、初めから、私はきみのお願いを断れない。
かこり。口の中の飴が、歯に当たる。かこり。舌でかき混ぜて、また歯に当たる。
かこり。かこり。かこり。
口いっぱいに、レモンの味。
よくわからないけど、手の中の飴を舐めた後だから、こっちの飴を舐めよう。
棒が飴に合わせて揺れる。
その先。
きみが、ちょっとだけ、満足そうに、少しだけ、照れたみたいに、耳まで少し色付いたその、どうしたって可愛い顔で。

よし。

ちっちゃく言ったのが、もう、本当に、どうしようもなく可愛かった。





私のポーチの中の飴はその日を境に、種類が、とても増えた。



どうにかしてサルミアッキ味だけは回避したかったリトヴャク中尉。

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