透明な隔たり



隔てるのは二センチ足らずの硝子板。

















滑走路に面した、部屋。
そこに私はいた。
珍しく防音硝子が使用されたここは、本来来賓室として使われていたのだろうか。それはわからない。
ここを教えてくれた人は、笑っていた。訓練してる姿も見れるとこで、一番静かな場所だよ。
窓際に立てば、広がる滑走路と青い海、水平線と青い空。
そして、滑走路の真ん中に置かれたバイクと、それを囲んだ数人。
硝子と室内の空気を微かに震わせたエンジン音。おそらく、外では相当の音だろう。
オレンジの髪を揺らした人と、黒髪を靡かせた子が、歯を見せて笑う。何を言っているかわからない。もしかしたら、彼女たちも互いにあまり聞こえていないのかもしれない。だって、ほら、鳶色の髪を跳ねさせた子が両耳を抑えながら口を大きく開いたり閉じたり。きっと、聞こえていない。
そして同じように耳を覆った白金が、眉をしかめているのを視界にとらえて、図ったかのように、紫苑がこちらを見た。
瞬間、眉根が解されて、口端が微かに緩んで、その人は、こちらに駆けてくる。
私は、それをただただ、見ていた。
そうして、目の前に、あなた。
いつもと視線が逆なのは、私が部屋の中に、あなたが外にいるせい。見上げてくる紫苑が、新鮮で、嬉しい。
淡い色の唇が動く。聞こえない。首を傾げれば、もう一度。聞こえない。一言一言。エンジン音に消える声。わからない。
首を横に振れば、あなたは背後を振り向いて声を張る。あの人たちには聞こえてなんかない。オレンジ色。黒色。鳶色。さっきと変わらないやりとり。何度かあなたはそれを繰り返し。意味がないと悟って振り返る。眉を下げて、首の後ろを触る。うん。わかってる。
本当は、お掃除のこととか考えるとあまり褒められたことではないけれど、あなたが、硝子に掌で触れた。
白い掌。あなたは少しだけ目元を下げて、唇を動かす。
ゆっくりねむれたか?
聞こえないし、読唇術なんてものもできない。けれど、何となくそう言っているのだと思った。頷けば、あなたは笑って、そうして、困ったような顔。うん。大丈夫。この音で起きたわけじゃないから。意識して頬を緩ませれば、あなたが苦く笑う。ああ、たぶん、わかってくれてる。
私も硝子に掌で触れた。あなたの掌に重なる様に。硝子が邪魔で触れることもないけれど。熱も、感触も、何も伝わらない。透明で、硬質で、何もない様なのに確かに隔てる空間。
あなたが笑う。空いた手で、親指と人差し指で作った、隙間。重ねたような二つの手の天辺。指と指の、背比べ。わたしも笑う。厚い硝子越し。私より、一回り大きくて、綺麗な手。
届いている。あなたの楽しそうな姿も、あなたが私に注いでくれている優しさも。
届かない。私の想いも、私があなたに告げたい言葉も。
透明で、硬質で、何もない様なのに確かに隔たる空間。
どうせ。
どうせなら。届かないのなら。まだ届かないのなら。聞こえないのなら。聞こえることがないのなら。
あなたの姿が見えて、あまり通りの良くない私の声が聞こえるだろうこの距離で。
少しだけ、練習を、させてもらおう。
あなたが私を見る。紫苑が、私を映す。
息を、吸った。



















少し離れたとはいえ鼓膜をどかどか足踏みしてくるのは煩いエンジン音。
マフラーを外したバイクから聞こえるそれは、もう音の暴力だ。新しいエンジンを積んでみた。目を輝かせながら言ったそいつに付き合ってやってきた滑走路で、あまりの煩さにどこかの大尉が飛んでくるんじゃないかと考えていた頃だった。
なんとなく目を向けた窓に、あの子を見つけた。
もちろん駆け寄った。陸に居るのに、珍しく見上げる形になる。何だかちょっと新鮮だ。
そう思いながらも、言った。どうしたんだ。傾げる首に、もう一度。大きく。もう一度。区切って。揺れる銀髪。なるほど。背後を見て、叫んだ。ちょっとお前らエンジン止めろ。止めろ。おいこら、聞いてんのか。うるせえって。変わらず楽しそうな二人プラスよくわかってない一人。聞こえてねぇな。息を大きく吐き出して、振り返る。ごめん、無理っぽい。首の後ろを触って、見上げれば頷いてくれる。
あとで怒られるかもしれないけれど、硝子に掌をくっつけた。見上げた翡翠。
ちゃんとねれたか?
聞こえないとわかっていても、声にして、きみが頷いてくれたのが嬉しい。わかってくれたのだろうか。そうして、ちょっと不安になる。この音が目覚まし時計とは言えない目覚めの音になってしまったんじゃないかって。きみが微笑む。ああ、たぶん、大丈夫だったんだろう。
きみの掌が、私の掌と硝子を挟んで重なった。白くて、華奢で、小さな手。指先の位置の違いが、なんだか可愛い。空いた手で重ねたそれの身長差を作れば、きみも笑ってくれる。うん。嬉しい。
何にもないみたいなのに、確かに私ときみの間にある空間。
届かない。声も、重ねた手も。
でも届く。きみの笑顔や、きみの可愛いところ。
たった少しの隙間が、ある。
きみの唇が動く。小さく、紡いだ。聞こえない。届かない。
見上げた翡翠には私。だから、きっと、私に届かせたい言葉。
さっぱり聞こえやしない。
首を傾げれば、たぶん、同じ言葉が繰り返された。わからない。読唇術なんてそんなものは身につけていない。
届かないとわかっていても、聞いてしまう。何て言ってるんだ。
きみが笑う。はにかんで、目元を緩める。何て、言ってるんだ。
背後でエンジン音に混じって怒号が聞こえた。慌てて振り向けば、堅物大尉殿。やっべ。ついに来た。
もう一度振り返る。逃げちゃだめよ。目がそう言っている気がした。つまり、一緒にちゃんと説教されなさいと、ああ、うん、はい。
腑に落ちないけど、仕方ない。早速口論を始めたであろう大尉コンビの元に、向かう。
何て言ってたのか、あとで聞こう。
そう思いながら。



















少ししょんぼりした背中を見送る。
向かう先にはお説教モードと言うものになったらしいカールスラントの大尉。
これは長い説教になってしまうかも。そう思いながら、私は部屋を後にする。
頬が少し熱を持っている。寝起きなのに、足取りも軽い。気分が高揚している。
いつもなら伝えられない言葉を、あなたの前で、声に出すことが出来た。
一度だけじゃなく、何度も。
あなたに届かないとわかっている。もちろん、あなたはわかっていなかった。
それでいいの。
私は、水晶玉のある部屋に向かう。項垂れて、疲れたあなたが帰ってくる場所に向かう。
あなたはきっと聞いてくる。
何て言ってたんだ?
それには答えない。だって、その時にはもう、あなたと私を隔てるものは、違うものになっている。全てが届くのに、届かせる勇気がない距離になっている。だから、言えない。はぐらかして、終わり。
だって。ねえ。私は。
あなたから、私に、真っ直ぐ言ってほしいの。
口の中で唱える。あなたに届かせたかった言葉。
窓から、澄んだ空を見た。
うん。
今夜はきっと、月が綺麗に見える。



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