あまえてあまえて



一時的に軍籍を置くこの五○二で宛がわれた部屋に私がいることは、ほとんどない。
もっと居心地がいい場所が、いつもあるから。五○一に居た時から、ずっと。私が選ぶのはひとつの場所。
今日も眠りから覚めたのは、貴女の、エイラの部屋。
それこそ空き部屋を借りているから、五○一みたいな、エイラの部屋、という感じは見た目からはしない。
ただ、何となく、きちんと片された本棚、古めかしい本の背表紙、カーテンの開け方、全部、ここがエイラの場所だって教えてくれる。
それこそ、エイラがいれば、どこでもいいのだけれど。
ベッドヘッドに背を持たれて座るエイラの隣に、マグカップを持って収まる。
そこで、気付いた。
今は、くっついてもいい時だって。
お世話モード。金色の髪と、きらきらした瞳を持つ人が言っていたその時と違う。
残念モード。黄昏の髪と、意志の強い瞳を持つ人が言っていたその時とは違う。
集中モード。ミルクティー色の髪と、優しい瞳を持つ人が言っていたその時とも違う。
触れても、身を強張らせることもない。見上げても、眠い、お風呂、食事、わたわたと聞いてくることもない。私が何を言ってもこっちを気にしてくれないこともない。
ただ、受け止めて、応えてくれる。そういう時間が、出来た。
たぶん、ロマーニャを解放して、またこっちに戻ってきた時くらいから。
こうなったエイラに甘えるのが、最近の、楽しみ。だって、今までなかったもの。保護者のような庇護でなく。壊れものを扱うみたいな慎重さではなく。目の前のことから離れないわけでもなく。ただ、そのままを受け入れて、応えてくれるなんて。なかったんだもの。
力を抜いて頬を肩に寄せ、エイラの手元を覗く。
図面と、数字と、文字。

「これなに?」
「あー、色んなストライカーの構造」

頁をめくる指を見詰めて、図面に描かれたユニットの国籍マークを見て、頬をまた擦り寄せた。
モノクロではあるけれど、見慣れたマーク。ハンガーでスパナを持つのは、あの大尉だけじゃ、ない。こと、私のユニットの前では。
一人の時でも、ちょっとでも、傍にいれたらなって。ずっと前に、そう言ってくれたのを、忘れたことはない。
自分のユニットよりも、私のユニットの前に居る方が多いことを、わかってる。

「あと、使うウィッチに合わせた調節も載ってる。飛び方の癖とか、武器の種類とか」
「しんちょうとか?」
「そー」

本の向こう側。無造作に投げ出された脚に、同じものを寄せた。直接触れる温度が、とても好き。
いつもの白とは違う、エイラの白。私よりたぶん白いのを、どのくらいの人が知っているんだろう。いつも並べて気付くのは、頬の色くらいだから。こうやって見ないと、わからない。

「おもしろい?」
「たぶん面白くはないなー」

マグカップに口を付けて、舌に広がるのはココアの味。オリジナルは甘党の先輩だと言っていた、今は私専用に変わった甘さ。
ふ、と。隣から香る、甘さとは逆の匂い。仰いで、白い喉が上下するのを通り過ぎ、形の良い唇を舌が舐めるのを、見る。
紫苑と、目が合った。

「どした?」
「……こーひー?」
「うん」

いつもの。差し出された片手に、揺らめく黒色。
私が持つものより、白い湯気が多い。私のは、ぬるめだから。
その縁を見て、さっき見たものを描いて。伸ばした指。

「ちょうだい?」
「ブラックだけどいいのか?」
「うん、ちょうだい」
「んん……、はい」

ちょっと眉を下げて、本を手放したエイラは、私のと交換する形で自分のを手渡してくれる。
擦り寄ったまま、マグを傾ける。
触れる熱さ。どっちの。どっちも。舌に残るのは。

「にがい……」
「だから言ったのに」

違う意味の苦さで頬を緩めたエイラにマグを取り上げられる。空いた両手に、私のマグが返ってくる。
口を付けて、苦さを流して、残る熱さ。
隣を、マグが傾いて、縁から唇が離れるのを見詰める。伝播しない熱は、私に溜まるだけ。それがちょっとだけ、不公平だと思う。
肩口から流れてきた、白金がひと房。掌で掬って、緩く引く。ちょうど、シーツの上の、日溜まりの色。

「えいら」
「んー?」
「なんでもない」
「なんだよー」

小さく笑うのを聞いて、少し揺れる肩を感じて、それでも擦り寄れば、本当に、こっちがどうにかなりそうなくらいに、愛おしそうに見てくるものだから、堪らない。
黙っていれば。誰かがそう言っていたけれど、たぶん、今私が見ているのが、一番。
誰にも見せたくはないと思う。
誰にも見れないと思う。
だって、これは、私だけに向けられているとわかっているもの。
自惚れでもなく、本当のこととして。
私がエイラに向ける全ても、エイラ以外には見れないもの。

「このあと、くんれん?」
「あと一時間くらいしたらな」
「そう……」
「……明日は一緒だから」
「うん」

好いてくれていることを、知っている。好いていることを、自覚している。
手を伸ばす先には、手を伸ばした貴女。ただ、ちょっとだけ、どう繋いでいいかわからないから。指先。掌。手首。腕。肩。身体。全部。
最初に、どう触れていいのかわからない。指先の温度がわかるくらいの隙間が、まだ、私と貴女の間にある。
あと少し。もう少し。たぶん、ほんの少しの言葉だけ。行動だけ。想いだけ。
今の距離が、心地よくて、じれったい。
いつの間にか空になったマグは、エイラの向こう側、サイドテーブルに置かれていた。
私はすっかりエイラに身体を凭れて、下ろした手に、指に、触って、絡んだ、同じもの。私に馴染む体温。
いつもよりも低く感じたのは、私の瞼が重いから。

「寝る?」

それをエイラもわかってくれる。
空いた指先が、前髪に触れて、ぼんやりした視界に映る少し緩んだ口元。
瞬きを数回。映った紫苑。ここが、私が眠っていい場所だと頭が勝手に判断を下して、瞼がさらに重くなる。だって、貴女が居るもの。
緩慢にベッドに横たわる私に、掛けられるタオルケット。
瞼が重い。呼吸が深くなる。思考がぼやける。
髪を梳かれるのを微かに感じながら、自分の手がいやに冷えていることに気付いた。離れてしまった。
少しだけ、指先を動かす。唇を、動かす。
音を震わせた自信はない。
けれど。

「ん」

貴女は、当然のように指を絡ませてくれる。熱が溶け入る。
きっと起きたら、この手は離されて、私だけの体温に戻ってしまう。
だけれど。
心に残る熱は、ずっと、いつまでも、これからも。

「おやすみ、サーニャ」

声に、意識を手放した。


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