誰だなんて思わない



「だーれだ」


ひまわりみたいなあの子が、柔らかい陽光みたいなあの人にそう言っていた。
少しだけ背伸びをして、後ろから回した腕が、掌が覆うのは瞼の上。
だーれだ。
小さな頃に、ソファに座るお父様に同じことをした記憶がある。誰かなあ。その優しいバリトンの声を覚えている。
掌を精一杯大きくして、精一杯背伸びして、精一杯の悪戯。
お母様かな。誰だろう。誰かな。妖精さんかな。誰だい。ああ、わからないなぁ。
最後には待ちきれなくて目の前に飛び出してしまった。やあ、僕の大切なお姫様だったのかい。笑顔のお父様に抱きついた。
そんな記憶。


「えっ!?」
「だーれだっ?」
「え、あ、……、……」


私に気付いていない二人は、どちらも口元が笑っている。
誰よりも近くで聞いている声。誰よりも早くわかるのだろう。二人は微笑んでいる。楽しそうに、嬉しそうに。


「芳佳ちゃんでしょう?」
「あったり!正解だよリーネちゃん!」


掌が取り払われて、陽光に映るのはひまわり。ひまわりが見上げるのは陽光。
触れた手は、当然のように繋がれていた。


「もう、びっくりしたよ?」
「えへへ、つい……」


笑いあった二人の姿が、どうしようもないくらい、眩しかった。
私は二人に背を向ける。
眩しくて、暖かくて、蝋を溶かす熱のようで、網膜に焼き付いた光景。
絆というものが見えていた、気がした。
だーれだ。
記憶がくるくる廻る。誰か、すぐに解ってくれますか。私を見つけてくれますか。
ねえ、貴女は。


「ぁ」


ミーティングルームの窓辺。ぼんやりと空を見上げる人を見つけた。
黎明の空のような瞳は、真昼の空を映してより蒼く色付いていた。
気配を消すことを意識する。どうして。理由は一つ。
思い描いていた人が、目の前にいるから。
こういう時の貴女に近づいても本当に傍に行かない限り気付かないと知っている。
きっとあと一歩で振り向く。その境界を素早く越えて、腕を伸ばした。
触れた前髪と、睫。瞳と瞼を覆った掌。
ねえ、貴女は気付いてくれますか。
息を吸い込む。


「サーニャ?」


平坦なトーン。
聞こえたのは私の声じゃない。私の言葉は、まだ喉の奥で詰まったまま。
固まった私の手を解いて、振り向いた貴女は少しだけ首を傾げて、微笑んでいる。


「どうしたんだ?」


力が抜けて、下ろしてしまった腕。掌は、こっちを見詰めてくるその瞳を覆っていたはずなのに。
私は何も奏でていないのに、反響したのは私の名前。
どうして。
すぐに答えは見つかる。
貴女が授かったのは少し先の未来を見る力。瞼の裏にはもう、私の顔が見えていた。そうでしょう。


「未来予知、使ったらダメ」
「え?」


私が望んだのはタネも仕掛けもない、そんな答え。
見上げた視線を少しきつめに向ける。こんなことしたって、貴女のそれが無意識なものだって解ってるのに。


「使ってないけど」


貴女の瞳に、私の丸い瞳が映っている。
貴女は、なんて言った。使っていないって。私の姿を瞼に映していなかったと。


「いや、この手の暖かさはサーニャだなぁって」


声を聞くこともなく。声を聞く必要がなかった。
誰よりも近くで、隣で感じていた暖かさは。
そう、言っているように聞こえるのは私のこの感情が、都合のいいことを想っているからだろうか。


「思ったん、だけど……」


何も言えない私を見詰める瞳が、機嫌を窺うものに変わっていく。
違うの。そうじゃない。私は、怒ってるんじゃない。違うの。逆なの。
貴女の瞼の裏に映ったのは、間違いなく私。けれどそれは神様から授かった力ではなくて、貴女が映したのでしょう。
俯く。唇を、噛む。ああ。どうしよう。泣きそうなの。貴女のせいで。


「さ、サーニャ?」


だーれだ。
貴女は、気付いてくれたんだもの。


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