つめきり



ぱちん。ぱちん。
弾くような、小さな音がする。私の指先から、音が鳴る。
私が奏でているわけじゃない。
小さな金属の道具を持った、私より少し大きいその手から、それは鳴る。
つめきり。
この行為は、そう呼ばれている。








最初は、本当に始めは、ちゃんと自分で切っていた。
私が寝床を変えたそんな頃。私の指先に気付いたのは、私じゃなくて貴女だった。
爪、伸びてるぞ。
起きたばかりの私はその言葉にただ頷くだけ。
いや、うん、じゃなくて。割れちゃったりしたら大変だろ。
あの時私は何て言ったのかすら、覚えていない。けれど、返した言葉がよかったのだと思っている。
貴女が、私の爪を切ってくれるようになったのは、紛れもなく、あの日からだから。








形よく切られた爪が右手の指先に並ぶ。
その様子を自分のものなのにぼんやりと見ていた。
確かめる様に指先を撫でる、私のじゃない指先。その肌の白さは私より白いかもしれない。








とてもとても緊張した貴女は、棚から取り出してきた爪の手入れ道具を手に視線を泳がせていた。
私はまだまだたゆたう頭でそれを見上げていた気がする。なんて言ったかな。なんて言えたかな。覚えていない。
首の後ろの辺りを触って、貴女は弱ったように笑ったのを覚えている。








少しだけ頭を動かすと、貴女の声が耳元で聞こえる。
寝ててもいいぞー。
平坦な、声。それは私を安心させてしまう音色。
その声で眠くなってしまうのを知っているとしたら、なんて意地悪なんだろう。
私はこの時間をとてもとても大事に、大切に、楽しみにしているのに。眠ってしまうなんて、そんなことはしたくない。








向かい合うように座った貴女の視線が私の顔と、私の手と、自分の手を、何度も何度も巡っている。
その様子が何だかおかしくて、ちょっとだけ笑った。やっぱり貴女は弱ったように、笑っていた。
触れた手は、何故か少しだけ震えていた。








貴女の手が持つ金属が、変わる。
右手の親指から小指。いつもと変わらない順番で丁寧にやすりが掛けられていく。
ある程度削って、布で柔らかく拭かれて、細かく直される。
尖りがないか、触れて痛くないか、実際に指先で確かめながら、一本一本、仕上げられていく。








ぱちん。
その音が聞こえて、その様子を見ていたはずの私は、瞼が重くて仕方なかったんだと思う。
ふらふらしていたんだと思う。座っていたはずの身体が、ベッドに引き寄せられる、その身体の延長にある腕も、手も、指先も、引かれる動く。
慌てた声が聞こえて瞼を上げれば、貴女が手に持つ金属の道具を私から大げさと思えるくらい離して、それでも反対の手は私の手を掴んでいた。
あ、あ、危ねぇぇぇぇ。
重い息と共に吐き出されたのはそんな言葉。そういえばつめきりをしてもらっていると気づいたのはその時。








掌に、指に、絡むように支えてくれる貴女の手。
力の入っていない私の手を、指を、一本ずつ、丁寧に操って、綺麗に整えてくれる。
いつもは触れただけで飛び退くくらいにうろたえるのに、今はそんなことが嘘のよう。
貴女にとっての今は、お世話、だから。
そう、認識しているから。そう、気付いてないから。そう、思っているから。そう、無自覚だから。
いいのか、わるいのか。








困ったように眉を下げた貴女が金属の道具を軽く掲げる。
寝ててもいいぞ。やっとくから。
私が寝てた方が、動かない方が、やりやすいのだろう。それは当たり前、ふらふらとしているより確実に安全。
けれど私の口をついて出たのは何故か否定の言葉。拒否と言ってもいい。そんな、二文字。
いや、って。ぁー……。
貴女がアメジストのような瞳を丸くして、首の後ろを触った。もしかしたら、困った時の癖なのかもしれない。
貴女のことがまた一つわかった私は、とても嬉しくて、もっと知りたくて、もう一度二文字を唇に乗せた。








右手から貴女の手が離れた。
指先からぬくもりが抜けていくような、寂しさを感じてしまう。
次左な。
まどろみの眠気。そんなとろとろとした思考で頷く。浸かっているのは、たぶん幸福だけれど。
ぬくもりが、左手に移った。








横になるという提案にも、二文字を告げた。
絶対寝てしまう。確信めいた自信がある。だってここは貴女のベッド。だって今は貴女の隣。ほら、眠ってしまうでしょう。
視線を泳がせていた貴女は、小さく溜息をついた。
困らせている自覚がある。ちょっとだけ、不安になる。困らせるような私を、嫌いにならないで。見はなさないで。
どうしようもなく優しい貴女がそんなことをしたくても出来ないとしっているのに。
同情でも何でもなく、相手が私であるから、そんなことを出来ない。そうであればいいのに。
貴女の視線が、椅子を見つめて、それから私を見た。









背中にぬくもりを感じる。
私と比べて、すこし低めの体温。平熱が低いと、私が風邪を引いた時に聞いた気がする。それなのに誰よりもあたたかい。
耳元で呼吸を感じる。
ぬくもりの動きに合わせて、ゆっくりと。そういえば、寝息をちゃんと聞いたことがないと何となく思った。
背中に鼓動を感じる。
とくとくとくとく。貴女の音。同じ楽譜に私の音が重なる。私の方がリズムが早い。いつもなら貴女の方がもっと早い気がする。
ひどく、心地よい。









じゃあ、こうしよう。
そういって、まるでダンスのターンのように、私が離さなかった手を繋いだまま、くるりと貴女が動く。
気付いたら、背中に貴女の存在。
寄り掛かっていいから。
考えるより早く、私の背中は貴女に触れた。柔らかく、でもしっかり受け止めてくれたのは、繋いだ手と同じぬくもり。
椅子を見ていた理由が分かった。名案とばかりに貴女が得意気に笑う。その振動が私に伝わる。吐息を感じる。鼓動を感じる。
ああ、これは、心地いい。遅れて、そう思った。
さらに遅れて、私の心臓が忙しくなる。頬も、耳も、熱い気がする。貴女の温度は、私より低いはずなのに。どうしてなのだろう。
よし。
貴女の視線と意識はもうお世話に向いていて、改めて右手が繋がった。










右手の指先と同じように整えられていく左手の指先を見詰める。
その物言いと真逆で、繊細な作業が得意な貴女。機械の整備も日常とする貴女の手は、そのくせ、とても綺麗だ。
今度、手に使う香油の配合教えてもらうか。
独り言に近い囁き。その手というのが私の手だということはすぐにわかってしまった。自惚れ。そうかもしれない。
自分のことはあまり気にしない貴女。その分を、私に注いでくれている気も、する。思い上がり。そうなのかも。
それでも、貴女が気に掛けてくれているという事実は変わらない。
そのだけで、私は嬉しい。










出来あがった私の両手の爪を見て、貴女は満足気に頷いた。
やっと心臓も頬の熱も落ち着いてきた私はそれを残念に思った。
出来あがったということは、終わりということで、終わりということは、ぬくもりが離れてしまうということ。
とても、とても、そう、足りない。
そんな私のことなんて、ちっとも気付かない貴女は、ずいぶんあっさりと私の手を離して、肩を支えてから、離れていく。
離れた背中から、指先から、寒いとすら感じるのはどうしてだろう。貴女の温度分、ぬくもりが消えてしまった、そんな寒さ。
終わったし、寝てていいぞ。ご飯になったら起こすから。
ベッドから降りた貴女が、貴女を見上げる私に微笑む。髪に、柔らかく触れる掌。
その手が離れていくのがいやで、ぬくもりが、貴女が、離れていくのが、とてもいやでしょうがなくて。
その手を、整え終わった指先で掴んでしまった。










はい、終わり。
いつも通り、丁寧に仕上がった指先を最後にひと撫でして、貴女が離れていく。
離れた時の寂しさと寒さは変わらない。むしろ回を重ねるごとに悪くなっている。
あの時から変わらず、貴女は私の髪に触れる。
寝てていいからなー。
その笑顔を見上げて、そうして、私は、あの時と変わらず。
その手を、掴む。









驚いた貴女は首を傾げた。
私も驚いていた。言うことも、伝える感情も、何も、何も考えていなかった。
散々迷った私から出たその言葉を聞いて、貴女はまた笑った。少しだけ、困ったように、また笑った。
いいよ。
その一言だけで、どれだけ私が幸せになるか、貴女は知らない。
続く言葉に、私がどれだけ悩んだかを、貴女は知らない。








いいよ、気にすんな。
緩く掴んだ手が離されて、代わりに言葉が降ってくる。
また、いつでも言えよ。
貴女は笑う。







思い出すのは、あの時の貴女の言葉。







眠くない時だったら、今日みたいにしなくて済むからな。







私は、眠いような気がする時にしか、つめきりを頼まない。


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