ぷう



私の部屋に戻って、いや、戻ってきたっておかしいか、やってきたサーニャの手には、まだ空気を入れていない風船。
聞けばルッキーニに貰ったらしい。はにかみながらそう言うサーニャは、とても嬉しそうだった。
赤青黄緑紫白黒藍橙。中庭の花壇みたいな色。
何だか少しだけ、よくわからないけど、もやもやしていた私は、またタロットに視線を落とした。
ベッドが少しだけ軋む。サーニャがこっちにくる。覗きこまれる。
えいら?
そんな目で見ないでほしい。何だがはずかしい。タロットを扇みたいに持って、顔を隠した。
首を傾げたのがわかったけど、サーニャは何も言わずに赤い風船を一つ手にとって伸ばし始めた。よかった。言及はされないらしい。
息をついて、タロットを並べる。今日の運勢。
めくったカードは月の逆位置。意味するのは、失敗にならない過ち、徐々に好転、未来への希望、優れた直感。
考えようによってはどうとでも捉えられるけど、いいカードだとは思う。この結果の意味をぼんやりと考えながら、ふと隣を見た。
ふぅ。ふぅ。
サーニャが赤い風船に苦戦していた。空気がうまく吹きこめないのか、時折揺れるだけの赤。
口から風船を離して、サーニャは少し眉を寄せて首を傾げる。見詰めた風船は膨れていない。
ふぅ。ふぅ。
一生懸命息を吹き込んでいるのがわかる、ちょっとだけ、ほっぺたが赤くなるくらいには頑張っているらしい。
可愛いな。って、どうしようもなく思った。
ぺたんと垂れる風船。まだ膨らまないそれ。サーニャは私の視線に気づいて、眉を下げた。
ルッキーニちゃんは、すぐ膨らませてたの。
そりゃあ、ルッキーニは慣れてるだろう。すぐに大きな風船を作って、あの風船みたいなとこに埋まって、嬉しそうに笑うんだ。うらやま何でもない。
サーニャはまた風船を伸ばして、首を傾げていた。膨らまないのが不満なんだろう。膨らませてこそ、風船なんだから。
ふと視線を落としたベッドには、逆位置の月のカード。優れた直感。
ふぅ。ふぅ。
サーニャを見る。未だ膨らまない風船。ははあ、なるほど。私はその直感を信じることにした。
一向に膨らまない風船からサーニャが口を離して、首をまた傾げている。
もう一度、挑戦しようとするサーニャの手から、赤いそれを素早く拝借。
ぷう。ぷう。
目の前で赤い赤い風船が膨らんでいく。息を吹き込むごとに大きく、大きく。
ずっとやってなくても感覚は忘れていないのか、簡単に出来たことに安心した。これで私まで手こずったらかっこ悪いし。
ぷう。ぷう。
頭くらいの大きさになったそれを、口から離す。指で入口を摘まんで、十分に膨れたそれを改めて見た。
ああ、ハート型なのかこれ。珍しい。ルッキーニが喜ぶはずだ。
上出来。あるべきの姿になった風船に口端を上げて、サーニャを見る。
そこには、風船と同じ色をしたサーニャがいた。
あれ。何で。瞬きをする。やっぱり私が手に持った風船と同じ色の顔をしたサーニャがいる。しかも黙ったままこっちを見て、え、睨んでる。
え。どうして。膨らまないのが嫌だったんじゃないのか。膨らませたのに。何がだめなんだろう。
ぷう。
赤い赤い風船と同じで、頬が膨れたように見えるサーニャ。怒ってる。怒ってない。どっちか解らないけど、喜んではいない。
優れた直感どこいった。私は思わずカードを睨みつけた。おい、どうしてくれるんだよ。
戻した視線には、黙ったままのサーニャ。どうしよう。何がいけなかったのかを考える。
手に持った膨らんだ風船。さっきまで膨らまなかった風船。
あ。
もしかして、まさか、自分で膨らませたかった、とか。ですか。
私か横からとっちゃって、勝手に膨らませちゃったから、不機嫌なんだ。そうだろう。そうだな。それしかない。
慌てて空気を押し止めていた指を緩める。文字通り気の抜けた音で、凋んでいく風船。私が膨らませてしまった赤い赤い風船。
元の形に戻った小さなそれをサーニャに恐る恐る差し出す。いや、献上する。すみませんでした。
サーニャはそれを受け取ってくれた。そう、自分で膨らませたかったんだよな、うん。ごめんなさい。
ふぅ。
息を吐きだすと、腕の辺りに衝撃。え。何。
ぽふぽふぽふ。ぽふ。ぽふぽふ。
小さな白い手がぐーを作って、私の腕をぽかぽか叩いていた。もちろんその手はサーニャの手。
ええええええええええええええええええええええええええええええええええ。何。ほんと。え。許してくれたんじゃないのか。
どうしたらいいのかわからない。声をかけようにもなんて言ったらいいかわからない。
ぽふぽふ。ぽふぽふぽふ。
赤い風船を握ったぐーで、サーニャが私を叩く。痛くなんてない強さだけど、気にしないことは出来ない強さ。
やっぱり赤い顔のまま、ちょっと俯いたサーニャ。怒ってる。怒ってる。絶対怒ってるこれ。
もたつく口で謝ったら、ぽかぽかが一瞬止まったけど、余計に強くぽかぽかされるようになった。
許してくれないらしい。気が済むまでぽかぽか叩かれるらしい。
ごめんよ、自分で膨らませたかったって気付かなかったんだ。いやほら、カードが、そう、タロット占いがですね、あ、はい、ごめんなさい。
天井を見上げて、息を吐き出す。風船にも入らないそれはどこかへ溶けていく。
視線を下ろせば、赤い顔、赤い耳。続くぽかぽか。
タロットを見れば、月の逆位置。
ああもう、お前のせいだ。
指先で、カードを弾いた。


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