悪い夢



見慣れた部屋だった。
目張りされた遮光カーテン。暗い室内。簡素なベッド。世界地図。私の部屋。九十度に曲がって見える天井と床。ベッドに横たわった身体。抱きしめたぬいぐるみ。きっとお昼前。カーテンの隙間から微かな日差しが差し込んでいる。小鳥の声と、波の音。身体を起こす。
さむい。
最初にぼんやりとした頭で思ったのは、そんなこと。気温の問題ではなく、言葉に出来ないさむさ。床に散らばる軍服を目にして、考える。
どうして、この部屋に居るんだろう。
どうして私は、私の部屋に居るんだろう、と考える。記憶が朧気で、わからない。私はいつも通り夜間哨戒を終えて、基地に帰還し、いつものように部屋に戻ったはず。そう、いつものように。
何故、私の部屋で寝ているのだろう。
寝惚けた身体と頭で軍服を手に取り、着替えていく。いつも着ている部屋着は、この部屋にはないから。やっと着替えを終え、私は部屋を出る。行き先は決まっている。私の部屋の隣。私がいつも帰ってくる場所。
ノックをしても返事がなかったので、いつものように鍵の掛かっていないその扉を開けた。
見慣れた部屋だった。
日差しが透ける薄いカーテン。一人で寝るのには大きめのベッド。テーブルの上の水晶玉。本棚の古めかしい本。よくわからない占い道具。
見慣れない空間だった。
気配がなかった。部屋の主の気配が、微塵もなかった。ベッドはメイキングされておらず、綺麗好きなあの人にはあり得ない薄らと埃が被った水晶玉や家具。申し訳程度に、それこそ、気が向いた時に掃除しているくらいの。そんな。そう。
誰も、使っていない部屋の、ような。
立ちすくんだ。意味を理解できなかった。目の前の光景の理由が、わからない。やっと動いた身体で、扉のネームプレートを見る。
そこには、何も書かれていなかった。
走った。
あの部屋は空き部屋よ?どうしたの?今更そんなことを聞いて。誰が使ってたのかもわからんな。処分するのもどうかと思って残したままだが。あの部屋?誰かが入る予定だったとは聞いたことがあるが。んー?結局入らなかったんだよねー。誰用だったんだろ。あの部屋面白いものいっぱいあるよ!誰のものでもないって言われたから色々遊んでる!整備?私以外はあんまりしてないな、知ってるだろ?整備が得意なやついないじゃん、この部隊。おかしなことを言いますのね。この部隊は十人ですわよ。寝惚けてらっしゃるの?サウナ?あ、うん、色んな国の人が来るから設置することにしたって言ってたよね。え?***さん?誰かな、この部隊には居ないよ?
全員に聞いた。全員に否定された。全員に訴えた。全員が狼狽した。
そんな人は、知らないと。
私の記憶の至る所に存在する彼女は、夢ではないのかと。
呆然とした。
私は部屋の前にいた。彼女の部屋の前にいた。扉を開けて、部屋に入る。
誰の気配もしなかった。誰の存在も感じ取れなかった。
ベッドのマットレスに座る。いつものように。身体を横たえる。
涙が。溢れた。


「エイラ」


彼女の名前を口にした。何度も口にした。誰も知らないという、その名を口にした。私しか知らないという、その名を口にした。
瞼を、下ろした。


――――――


瞼を上げた。
見慣れた部屋だった。
日差しが透ける薄いカーテン。一人で寝るのには大きめのベッド。テーブルの上の水晶玉。本棚の古めかしい本。よくわからない占い道具。
九十度に曲がって見える天井と床。ベッドに横たわった身体。抱きしめたぬいぐるみ。きっとお昼前。カーテンに漉された柔らかな日差しが差し込んでいる。小鳥の声と、波の音。身体を起こす。
見慣れた空間だった。
足元にある折り目正しく畳まれた私の軍服。枕元に放り出されたタロットカード。サイドテーブルの上に読みかけの本。
気配がした。存在を感じた。
けれど。
居ない。
駆けだしていた。


――――――


欠伸を噛み殺す。
いつもなら二度寝を決め込んでいる時間に疑似敵としての模擬戦を頼まれたのだ。結果は言わずもがな。軍曹二人が恨めしげに見つめてくるのに口端を上げてやった。確実に上達している二人の技術は目を見張るものがある。でも相手が悪かったな。着陸後、これ以上訓練に付き合わされる前に、二人の頭をぽんぽん叩いて早々に抜け出してきたのだ。
太陽は随分高く上っている。もうすぐ食事の用意が始まるだろう。あの子が起きるのにはまだ時間に余裕があるけれど、なるべく早く部屋に戻りたかった。書き置きはしておいた、それでも起きた時に一人にさせるのは、どうしてか、気が引ける。私のつまらない自己満足だ。
そんなことを考えていた私が、それを見つけた瞬間に思考が一瞬止まってしまったのは仕方のないことだと思う。たぶん。
インナー姿のまま廊下を歩いているサーニャが、いた。
その時点の私は、その衝撃的な光景、というか姿に意識を捉われてサーニャの表情なんて見てなかったんだ。凄く、大切なことだったのに。私はとにかく慌てていた。それはもう、慌てた。
何でそんな恰好で歩き回ってんだ!!
駆け出すと同時に周囲の確認。周りに人影なし。よし。いや、よしじゃなくて。生憎毛布なんやらを持ち歩く習慣はない。軍服の上着を脱ぐ。ええい、ベルトが煩わしい。脱いだ上着を片手に。声が届く距離。まだサーニャは私に気付いてない。そこでやっと気付いたんだ、様子がおかしいって。でも私はそれが何故なのか考える前に名前を呼んでいた。


「サーニャ!!」


サーニャが顔を上げた。私を見た。肩が上下している。息が上がっている。走っていた?何で?足元がおぼつかないみたいだ。危ない。どうしたんだよ。呆然とこちらを見ている。表情が上手く読めない。何だってんだ。寝惚けているのだろうか。そのまま駆け寄って、やっと隣に辿り着く。


「そんな恰好で部屋でてきちゃだめだって!」


上着を肩にかけてやる。ああもう。こんな姿他の人に見られたらどうすんだよ。出来れば見せたくないのに。いやまあお風呂とか皆で入ったことあるけど。それとこれとは話が別で。あ。いや。違う。違うって。何考えてんだ私は。


「寝惚けてるのか?軍服あったろ?」


いつもより起きるのが早い。だから、いつもより寝惚けているものだと思った。軍服がずり落ちないように軽く押さえながら、こちらをやはり呆然と見上げるサーニャに問いかける。
次の瞬間には、私は捕まっていた。


「へ?」


間抜けな声だったと思う。
小柄で華奢な身体が私にくっついている。細い腕が私の背中に回っている。柔らかい銀色の髪が首筋と頬を撫でる。
サーニャに、抱き付かれていた。
ああ。柔らかいしあったかいし、何だかいい匂いがする。じゃなくて。おい。ばかやろう私の脳みそ。固まる身体。がちがちに緊張した腕は抱き寄せるなんてことは出来はしない。悲しいことに通常でも出来ない。うるさい。
そして次の瞬間、私はもっと衝撃的な事態に直面する。


「ッ!?」


言葉が出なかった。
サーニャが、泣いていた。
状況を理解してびっくりしたのと、状況が理解できなくてびっくりしたのと、ダブルパンチ。
エマージェンシー。脳内でブザーがけたたましく鳴る。これは緊急事態だ。それはもう、非常にまずい事態だ。


「さささささささささーにゃ?」


情けないことに私はおろおろするしかないのだ。だって、理由がわからない。
それでも、震える肩だとか、鼓膜に触れる微かな声だとか、ワイシャツに沁み込む涙だとか。そういうものが、私を動かす。


「さーにゃ、どうした?」


理由を教えて。私は何が出来る?教えて。何だってしてあげる。やってやるさ。サーニャのためなら。どんなことだって。
お願いだから泣かないで。私が泣きそうだよ。
背中に回っている腕の、縋りつく手の、力が、強くなる。離れないというみたいに。離さないっていうみたいに。
出来るだけ優しい声色を目指して、問いかける。誰かに何か言われた?否定。どこか痛い?否定。
考えて。考えて。


「ゆめでもみた?」


肯定。
ああ。わかった。私はようやく納得する。理解した。
きっとサーニャは両親の夢を見たんだろう。それで起きて、人恋しくなったんだろう。息を切らせていたのは人を探していたから。私を、自分以外の人を見つけて、やっと安心したのだろう。だから、抱きついているんだろう。両親の代わりとして。やっと、緊張が少し解けた。
サーニャには申し訳ないけれど、よかったと思ってしまった。最初に見つけてもらったのが私で良かったと。他の人にサーニャが抱きついてる姿は、やっぱり、あまり見たくはない。うん。私のわがままだけど。


「さーにゃ。サーニャ、ちょっと、腕、緩めて」


いやいやと首を横に振るサーニャの頭をゆっくり撫でる。


「ここにいるから」


頭を撫で続けていると、少しずつ下ろされる腕。それを確認して、私はサーニャを抱き上げる。たぶん、支えてあげても歩けないような気がしたから。軽い小さな身体を、いつも通り繊細なガラス細工を扱う以上に気を使って、抱き上げた。


「部屋に戻ろう?」


頷いてくれた時、眦に溜まった涙が零れた。


−−−−−−


サーニャは眠ってしまった。
泣き疲れたのか。走りつかれたのか。安心したのか。全部なのか。
部屋に着いてベッドに下ろすと、無言の要求を以てして、私は敷布団兼抱き枕にさせられた。
ベッドのヘッドボードに枕とクッションを重ねて背凭れにした私の身体に凭れるように、サーニャは眠っている。
空色の軍服を掛け直す。結局、部屋着に使っているパーカーを着ることすら拒否して私にくっついたまま。風邪をひいてしまうと強く言おうとしたら、また瞳が潤んだからそれ以上言えるわけがなかった。なすがまま。されるがまま。お姫様はおやすみ中。胸元に小さな寝息を感じながら、ワイシャツくしゃくしゃになっちまうなー、なんてどうでもいいことを考えた。
起こさないように、ふわふわと頭を撫でる。


「さびしいんだよな」


再び背中に回った腕は、私のシャツを掴んで、決して放してくれない。それほどサーニャが見た夢は、サーニャを動揺させたのだろう。傍にいてしかるべき人たちが居ないのだ。人肌を、欲するのは当たり前のこと。それがたまたま私だったってこと。
ごめんよ。一番傍にいてほしい人じゃなくて。
それでも、サーニャ。君がこの瞬間だけでも私を望んでくれるなら。
私は。私を。


「傍にいるよ」


傍にいさせて。


inserted by FC2 system