半身



眉根に皺が寄るのを自覚して、指で解きほぐした。
それでも上げた視線にまた皺が刻まれてしまう。
魔窟。誰かにそう称されていたがまさにそうだ。秩序とか他諸々、大切なものが欠けている。
汚いという一言では収まりきらないスペース。それが目の前に広がっている。
朝起きれば目にし、夜寝る前に目にする所であるからして、見慣れていると言ったらそれまでだが慣れたいとは思わない。
が、慣れてしまったその光景。
人はそれをハルトマンの居住地と呼ぶ。
時計を見ればもうすぐ昼時。
太陽は上り、人は一日の活動を開始してそれなりの時間が経つ頃だ。
ジークフリート線の向こう側。
ベッドと解釈していいのか解らないもののその上。
タオルケットも掛けずだらしない寝顔を晒すこの空間の主、ハルトマンの姿がある。
反射的に声を張り上げようとして直前で思いとどまる。


「フラウ頑張ったんだから、寝かせてあげてね」


柔らかく頬を緩めてそう言ったミーナの顔が脳裏に横切った。
昨夜遅く現れたネウロイ。夜間哨戒組の援護に行ったのがハルトマンたちだった。
私は待機組で、複数現れたネウロイの三分の一を墜としたのがハルトマンだと報告で聞いた。
このウィッチは、その名に恥じない仕事をしてきたというわけだ。


「だからと言って寝過ぎだろう」


いつもより格段に眠るのが遅かったからとはいえ、それでも睡眠時間は十分すぎるほど取っている。
普段からこれ以上寝ているのだから、それもどうかと言えばそうだが。
もはやどこが入口か解らない柵を越えて、変なものを踏まないように気を付けて、けもの道のような通路であろうその隙間に足を進める。
辿り着いたベッドの隣。
ベッド脇にはカーキ色のタオルケットが固まって落ちていた。溜息が出た。
これは私のものだった。いつだったか寒い寒いとうるさいハルトマンに奪われた記憶がある。
奪っておいてこれか、ばかもの。
それを拾い上げて軽く払い、腹を丸出しで寝ているその強奪者に掛けた。
するとすっぽりと収まるように身を縮めるハルトマン。もう一度、溜息が出た。
小動物を見ている気分だ。
しかも、とてつもなく手のかかる小動物を、だ。
これがウルトラエースだというのだから、世の中わからない。
また眉根に指を当てているとごとごとと物音がした。ベッドの下。
口元が引きつる。この環境は、やつらの出現の可能性が異様に高い。そう、チーズだとかそう言うものが好きな、あの。
それが現れたなら流石に一度はここを片付けねばならない。そしてその責務を負うのは何故か私なのだ。誠に遺憾だが。
ベッドの足元の方。その下の隙間から物音は聞こえる。
本やら瓶やら衣服やらよくわからないものまでもが作った地層の隙間から聞こえるわけだ。
その出現に備えて意識を集中して、果たして現れたのは。


「…………お前か」


黒と茶の毛並みに、垂れた耳。咥えていた何かの、水色の頭巾を被ったぬいぐるみを口から落とし、こちらに寄ってくるその姿。
愛嬌のある顔と、ちょこちょこと動き回る小さな身体。
主を彷彿とさせる使い魔。
しゃがめばこちらを見上げてぶんぶんと左右に触れる尻尾。埃が立っている気がするがそれは目をつぶった。止めてはくれないだろう。止められないだろう、本能的に。
わん。何も言わない私を不思議に思ったのかひと吠え。慌てて隣を見ればそこには寝顔。
息をつこうとしてまた眉根を寄せる。そうだ、毎朝あの私の声で起きないこいつが、これ如きで起きるわけがない。
視線を前に戻せば首を傾げて、相変わらず尻尾を振っている使い魔。
使い魔が起きているというのに主ときたら。
そう思っていると、しびれを切らしたのか仰向けになって使い魔はお腹を見せてごろごろと転がり始める。ああ、こら、汚れるだろう。


「わかった、わかった」


手を伸ばせばちゃんとお座りをするところは主とは違うところだろう。あいつは姿勢を正そうとなんてしないから。
頭を撫でればさらに揺れる尻尾。少しだけ笑いが漏れた。
先ほど転がったせいでついてしまった埃を取ってやりながら使い魔に話しかけた。
大丈夫、だらしのない主が起きるわけもない。


「お前の主はどうにかならないのか」


首を傾げながら舌を出して笑顔のような使い魔。
何度目かの溜息。


「お前が似てたのか、お前が似たのか」


中身は根っからの猟犬。
そのくせ、可愛らしい外見。愛嬌のある行動。憎めない存在。


「尻尾を振れば、誰にでも可愛がられて」


鷲。ワイマラナー。灰色狼。狐。兎。思い浮かぶたくさんの人。


「誰にでもついていってしまいそうな」


目の前で揺れる尻尾は、いつかそれを見送る様になってしまいそうで。
手の届かない所まで。声の届かない所まで。
追い掛けて、追い掛けて。届かない。
誰かの傍に。


「ハルトマンは警戒心がなさすぎる、そうは思わないか?」


首を傾げるその姿が、いつだかに部下からの手紙を不本意にも手渡してやった時と被った。
何も、わかっちゃいない。
そのままわからないでいてほしい。
頭を振る。何を考えているんだ私は。


「お前に話してもどうしようもないか」


ぐしぐしとさっきより強めに頭を撫でる。
揺れる尻尾は少し早くなる。


「しかし、この生活態度等はどうにかならないか」


もうお昼だ。
宮藤たちの作ったご飯が冷めてしまうではないか。


「なあ?」


わん。それがどんな意味をもった返事なのかは分からない。
自分の使い魔でもない、こいつの言葉は解らない。
もしかしたら何も考えちゃいないかもしれない。
苦笑いが浮かんだ。


「お前からもちゃんと言っておいてくれ」


わん。もう一度吠えたその声は、瞳は私には向いていなかった。
私の斜め後方を。詳しく言うなら丁度ベッドがある位置を向いていた。
先ほどとは違う意味で口元が引きつる。振り向こうと回した首が油が差されていないブリキのロボットのような動きになってしまった。


「っ……、っ、」


そこには、枕に顔を埋めて、明らかに笑いをこらえるハルトマン。
慌てて立ち上がる。顔にも一気に血が上る。


「おまっ、いつっ」
「生活態度とか言ってるとこからー」


言葉が詰まる私を見上げて、目尻に涙まで浮かんでいるハルトマン。
寝転んだまま、にやにやと口元を緩める姿のなんて腹の立つことか。


「トゥルーデってば、かっわいーい」
「な、こ、・・・・・っ」


頭の中には色々と言葉が乱舞しているのに口から出ていかない。
最終的に飛び出した言葉は。


「起きたなら自主訓練でもせんか!!!」


いつもと同じようなもので、私は言葉と同じように部屋を飛び出した。











トゥルーデが出ていって、一人きりに、違うか、一人と一匹になった部屋でニヤつく顔を止められない。
いつの間にかベッドに上がってきていた使い魔が尻尾を振っている。
枕を抱える様に顎を乗せて、伏せをしている目の前の使い魔に右腕を伸ばす。


「ずるいぞー」


むいっと、ほっぺを軽く引っ張った。
ちょっと間抜けな顔。左腕も伸ばして、もうかたっぽのほっぺも引っ張る。


「私だってあんまり撫でられたことないのに、いっつも撫でられて」


尻尾を振れば、撫でてもらえるなんて。そんなのずるい。


「主に譲れよぅ」


私の使い魔なのに。
私にはそんなことしないくせに。
私には、あんなこと言わないくせに。
言えないくせに。
ニヤついた頬が元に戻っていく。
ねえ。


「尻尾振る相手くらい選んでるよねー?」


どうして。


「傍にいる人くらい、厳選してるよねー?」


わかってくれないの。


「お腹見せるのだって、……」


使い魔は、尻尾を振るのを止めてこっちを見ていた。
ごめんね。
ちょっと色々考えただけ。
カーキ色のタオルケットを捲る。少しだけ隙間を空けて。


「寝よっか」


使い魔が滑り込んでくるのを合図に瞼を下ろす。
夢の中では、頭撫でてくれないかな。
なんて。思って。
私はまた夢の中に。












「お?何だ堅物、顔真っ赤だぞ?」
「ううううううううううううううううるさいぞリベリアン!!へらへら笑うな!私がそんなにおかしいか!!」
「は?」


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