安全確認



目の前にトゥルーデが居た。
トゥルーデじゃないみたいな、トゥルーデが居た。
怒った顔でも。しかめっ面でも。厳しい顔でも。私がとても見慣れた表情じゃない。とても、とても、静かな微笑みを浮かべたトゥルーデが立っていた。それこそ、あたしがどんなに頑張っても、望んでも敵わない、トゥルーデの唯一の肉親にだけ浮かべる微笑みに、少し似た表情。
ねぇ、何でそんな風に笑ってるの。ねぇ、トゥルーデ。怒んないの。あたし今日も寝坊したよ。部屋の掃除もしてないよ。床で寝てたよ。夕食のお芋、四つ多く食べちゃったよ。ねぇ、トゥルーデ。
そう話しかけて、声が出てないこと気付いた。音として、伝わらないことが分かった。
トゥルーデは変わらず微笑んだまま、あたしを見ている。いや、違う。あたしじゃない、もっと遠くを、漠然としたものを、もしかしたらあたしさえ見えてないのかもしれない。
あたしだけ、見えてないのかもしれない。
ねぇ、トゥルーデ。トゥルーデ。
音のない呼びかけと共に、一歩近づく。身体が鉛のように重い。ドロドロの何かに纏わりつかれたように動きづらい。それでも近づく。
トゥルーデ。どうしたの。ねぇ。あたしを見れば怒って。叱って。説教して。それで。ねぇ。しょうがないな、って顔してよ。文句言いながら世話焼いてよ。あたしを見てよ。聞いてよ。
身体が重い。近づけば近づくほど、重くなる。近づいてはいけないというように、近づいていいわけがないというように。腕を伸ばす。手を伸ばす。指を伸ばす。
あと少し。
ねぇ、トゥルーデ。
指先が、すり抜けた。


――――――


起きた。
わかった。
軍服のポケット。
鍵。
飛びだした。


――――――


私の妹として生まれてきてくれた女の子は、まだ本当に小さかった。
とてもとても可愛い妹。
そのくりくりした丸い瞳を覗き込むと、お姉ちゃんになりたての少女が映っていた。私だ。
妹の名前を呼ぶと、妹が笑ってくれた。
紅葉みたいに小さな手を伸ばして、私の顔に触れる。
ぺち、ぺち。
本当に弱い力で、まるで確かめるように。
私が、お姉ちゃんだよ。
ぺち、ぺち。
妹の手が、私の頬に触れる。
ぺち、ぺち。
顔全体に触れる。
ぺち、ぺち、ぺち。
少し力が強くなった。
ぺち、ぺち、ぺち、ぺち。
ん?
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち。
何だ。
ぺちぺちぺちぺしぺちぺしぺしぺちぺしぺしぺしぺし。
ちょっと待て。
ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし。


「ハッ!?」


目を見開く。
そして今までのものが幸せな夢だったことを認識。さらに。


ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし。


その幸せな夢を悪夢にしかけた犯人を発見。
私に馬乗りになり、何故か私の顔をぺしぺしと触りまくる、とても真剣な顔の侵入者がそこにいた。


「な、はると、ま、ちょ、やめ、おり、こら、なん、・・・・・コラァ!!」


喋ることすら遮るように掌をくっつける。それを跳ね飛ばす様に上半身を起こす。ころん、と倒れる侵入者と、それを若干の不機嫌を自覚しつつそれを見詰める私。
よく見なくても今はまだ夜空の時間。私たちが普段駆る色ではない時刻。時計を見れば短い針はさんを過ぎたあたり。どう見ても深夜だ。ほら、目の前で転がっているやつも寝巻のままじゃないか。いや、それを基準にしてはダメだ。


「何のつもりだ」


寝起きの頭と身体にいらつきというものはよくないな。眉間を抑えながら問えば、答えが返ってこない。さらに寄った眉根から指を離し、改めて強襲者を見れば、起き上がってやはり真顔でこちらをじっと見ていた。


「何だ」


疑問と不審。重ねて問えば、また伸びてくる腕。
何故だが避けてはいけない気がしてそのまま動かずにいると、ぺち、と頬に触れる高めの体温。相変わらず子供みたいな体温だ。


「あったかい」
「お前の方があたたかいだろう」


気の抜けたような感想を漏らしたので、一応反応してやるとさらに続く言葉。


「触れる」
「私は幽霊か」


今度はこちらの気が抜けて、溜息をつく。
頬に触れていたぬくもりが離れた。視線をあげれば、未だに真顔でこちらを見ている。


「トゥルーデ。ねぇ、トゥルーデ」
「ああもう、何なんだ」
「呼んで」
「は?」


呼んで。と言われれば、おそらくは名前のことだろう。
よくわからないが、こいつの気が済まない限り解放してはくれないと経験が物語っている。私はため息交じりに呼んでやることにする。


「ハルトマン」
「違う」


即答された。呼んでやったのに何だこの反応は。疑問を視線に込めて送れば、そこには真顔。どこか、懇願するような。
だから、私はもう一度溜息を吐いて。


「どうした、フラウ」


彼女を、呼んだ。
私の呼び声が届いて、何故だがフラウが泣きそうな顔をした気がした。それで、反応が遅れたんだ。


「お、わあ!」


突進するようにぶつかってきた、というか、抱きついてきたフラウを受け止めきれずにベッドに逆戻り。そのまま抱き枕のようにホールドされる。


「おやすみ、トゥルーデ」
「馬鹿者!おやすみじゃない!」
「うるさいよ、トゥルーデ」
「お前というやつは・・・!!」


耳元で嬉しそうな声が聞こえる。どうやら真顔はもうおしまいらしい。
ああ、ほんとに、よくわからんやつだ。
もう聞こえ始めた寝息に盛大な溜息をついて、脱力する。
いったい、何だって言うんだ。
いまだ闇夜が占める世界。天井を見つめてもう一度溜息をつく。


「起きたら説教だからな」


仕方なく、瞼を下ろした。


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