積み上がった書類に眉が寄った。
坂本少佐がするわけじゃないでしょう。
その言葉に今度は下がった。

「いやー、ははは、どうにも書類仕事は合わん」
「そうね、知ってるわ」
「ははははは」

冷や汗が流れる。
軽く笑ってくれたのにも関わらず、ミーナが発するのは冷気だ。いや、その、すまん。

「怒ってないわよ」
「は」
「この代わりに訓練関係は全部してもらってるんですもの」
「それは、そうだが」

それは私が望んだことでもある。
かといって、たまにバルクホルンも手伝っているのを見ると、何と言うか、若干、居た堪れない気分になるのも確かだ。
ゆうに烈風丸の柄の長さを超えた高さに積み上げられた書類。その枚数はいかほどか。
私の視線に気づいたのか、小さな溜息。

「それに、そっちはもう処理が終わってる書類よ」
「そうなのか」
「ええ」
「さすがミーナ、仕事が早い」
「早い、じゃなくて、やらなければいけなかったの」
「……すまん」
「いいえ」

ミーナが重い息を吐き出して、椅子の背が鳴る。
ペンを置いて、脱力。瞼を軽く撫でていた。
この量の紙と格闘していたのだ。それは疲れるだろう。
居た堪れなさと共に思っていたことが、ひとつ。

「これはいつまでなんだ?」
「え? ああ、明後日までね」
「今日には終わりそうじゃないか」
「他のことにも目を通しておきたいから、早めにって思って」

軍靴の踵を鳴らす。
重厚な机を回りこんで、椅子の隣。見上げてきた赤色。疲労の色。
うむ。

「ミーナ、休憩だ」
「大丈夫よ」
「休憩だ」
「坂本少佐?」

呼び名に思う。まだ仕事の思考だ。
どうしたの、と見てくるこのヴィルケ中佐をどうにかこうにかして、ミーナに戻さなければいけない。
休憩は、それからだ。
さて、どうしたものか。とりあえず、直球だな。

「押し付けている私が言えたことではないが、少し休んだ方がいい」
「だから」
「丁度私も休憩しようと思っていたところだ」
「あのね」
「一緒にどうだ」
「美緒?」

呼び名に思う。もう少しだ。
休憩。といったらお茶か。日本茶が飲みたいな。ミーナが淹れた方がうまいんだが、今日は私が淹れようか。そうしよう。
そうだな。お茶に誘おうか。となると。あれだ。ほら。
記憶を探って、その一言を発掘。
苦笑してまたペンを取ろうとしたミーナの視線が私から外れる。赤髪から覗く耳。
ああ、あれか。
やはり上に立つ者として、あまりおおっぴらに仕事を投げ出して休もうとはしないものなのだろうか。
ならば、こっそりとだな。誘う方も、こっそり、ひっそり、だな。
身を屈めて、彼女が振り返るより早く、その耳に触れて直接。

「私と一緒にお茶でもいかがですか?」

内緒話。
綺麗な髪が乱れかねない勢いで振り向いたミーナに驚く。ああ、シャンプーの匂い。
一瞬だけ見えた灰色獣の耳は気のせいか。
というより、その髪や瞳に負けないくらい顔が赤いのは何故だろう。私が触れていた耳が、掌で隠されている。
くすぐったかったのか、それはすまないことをした。

「……、誰の入れ知恵?」
「ん?」

絞り出された声に、首を傾げる。
入れ知恵。何のことだ。
しばしの沈黙。ミーナ。呼べば、あからさまに大きな溜息一つ。おお、なんだ、どうした。やはり疲れがたまっていたんだろう。
そうして私が手に入れたのは。

「ちょっとだけね」

その了承の声。
しかし何故そんな睨むような目で見られているか、わからん。
茶をすすりながら思った。



【誘惑

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