あまったるい
寮の自室に戻ってきた明日菜が帰宅の声を上げる前に感じたのは嗅覚をこれでもかと刺激する匂い。
不快な臭いというわけではない。
そのまま室内を進みキッチンに顔を出せば、予想通りの光景。
鼻歌を奏でながら作業をするルームメイトの姿があった。
「甘い」
「あ、明日菜帰ってきたん?」
思わず発した言葉に振り返った木乃香が笑う。
「部屋中が甘い匂いでいっぱい」
「堪忍え」
やっと口にした帰宅と、出迎えの言葉を交わし、木乃香の背後から覗きこむように見た手元には匂いの原因。
その理由を考えるまでもない。このひと月近く、傍でずぅっと言われ続けていたことだ。
チョコレート。
「クラスの皆の作っとるからなぁ」
恐らく選別している途中なのだろう。明日菜から見れば見劣りしない捌けられたその一つが口元に近づけられて、迷わず頬張る。
木乃香が首を傾げた。
「おいしい?」
「美味しいに決まってるでしょ」
「よかった」
嬉しそうな木乃香に対し、女の子だなぁ、なんて感想を抱きながら視線を動かせば今ほど口にしたチョコとは違う物を見つけた。
色合いが示すのは、隣に置かれた宇治抹茶。
何気なく腕を伸ばして。
「あ。それはだめ」
やんわりと制止をもらう。
声はあくまで穏やかだが、伸ばした腕にかかる手が明確な拒絶を示していた。
訝しんで眉根を寄せれば、木乃香は頬を染める。
指差すのは、先ほど明日菜が口にしたチョコ。
「こっちは皆ので」
続いて示したのは、明日菜の腕の先。
「こっちは専用」
誰の。
聞く必要はない。藪を突いて蛇を出したくなんてない。
墓穴なんて以ての外。
二重の意味で閉口した明日菜に、木乃香は両手を合わせた。
「今日ちょっと夜中抜け出すからよろしゅうな、明日菜」
お願い。と可愛らしく頬を染める。
砂を吐きそうになるのを抑えながら、明日菜は言う。
「一番がいいってか」
ちょっとしたからかいを言わなければ、割が合わない気がしたのだ。
しかして明日菜はそれを後悔することになる。
とても愛おしそうに、たった一人に対する微笑みを浮かべた木乃香は、言う。
「ちゃうよ、特別がええの」
チョコレートはもう口の中にはない。
が、明日菜が感じたのはそれ以上の甘味だった。
「甘い」
顔をしかめるしかなかった。
「甘さ控えめやえ? 甘いのあんま好きくないし、好みを慎重に分析して、お茶と一緒に食べれるように味も研究に研究を重ねて、やぁーと辿り着いた完成形!」
「あー、なんかもう、甘い」
テンションの上がるこの子には何を言っても仕方ない。
明日。
特別なチョコとやらを口にした人をからかおうと、明日菜は心に決めた。