Who am I ? 3






重厚なデスクに手を組み、視線を伏せる女性。
彼女の前には、模範通りの立ち姿を維持した男性。

「やはり、見せるべきです」

重苦しい空気が留まった室内に、低く毅然とした声が響きます。
彼の視線は、揺るぎませんでした。

「そうね、リスクも高いけど、それが一番可能性が高い」

細く長く、息を吐きだした彼女もまた、視線をあげました。
交わす瞳は、一つのことを想っていました。

「では、仔細を決定したら、お伝えします」
「あの子には」
「わかっています」

彼が去り、一人になった部屋で、彼女は再び瞼を落としました。

「やっぱり、見ているだけなんてできないのよ」

吐息のように呼ばれた名は、愛しい子。






























上司たる執務官が不在の執務室。
デスクの上に鎮座する雷神の戦斧と呼ばれるデバイスに何度目かの視線を向けたシャーリーさんは、意を決したように口を開きました。

「バルディッシュは、何も言わないの?」
〈What to do?〉 と仰いますと?
「あの、あー……」

言葉を濁したシャーリーさん。
その表情から何を言おうとしているかなんて、解りきっています。それでなくとも、今のフェイトさんにとっての大切なことなんてひとつだけ。
そのまま俯いてしまったシャーリーさんに、雷光の明滅が届きます。

〈I can only feel the need to say.〉 必要がなければいいません。

無口なデバイスが初めてシャーリーさんに見せたとも言っていい、心のうち。

〈All just for her.〉 全てはあの方のために。

主の魔法光と同じ色をした輝き。
BJを身に纏ったその人の傍らに必ず居る戦斧。

〈I promised the producer.〉 それが私と製作者との約束です。

この金色の本来の姿。
その宝玉の形が猫の目のように鋭いことを、不意にシャーリーさんは思い出しました。




























彼女の使い魔が、こちらに来ている。
その知らせを受けてはやてさんが取った行動は、その使い魔に会う以外にありませんでした。
久しぶりに会った使い魔はいつものように朗らかな笑顔を浮かべていました。
いつもの、笑顔。
主と同じで、いつもと変わらぬ様子に、はやてさんがいらだちを覚えるのは仕方のないことだったのでしょう。

「アルフも何も言わへんのか」

はやてさんの低い声にアルフさんは表情を消しました。
けれど、俯いて拳を震わせるはやてさんはそれに気づくことなく、続けます。

「バルディッシュもそうや。何も言わん」

使い魔も、デバイスも。
彼女の半身とも呼べるものたち全てが。

「ええんか」

何も、しない。

「フェイトちゃんがあのままでもええんか!!」

不安。不甲斐なさ。葛藤。遣る瀬無さ。空回りする感情。
全てが、どうする事も出来なくて、燻ぶるだけのそれを焚き付けるように発した叫び。

「何かして、全てが戻るならそうしてる」

返ってきたのは、小さな、それなのによく通る声。
思い出すのは主が無限書庫で言っていた言葉。
その声色ははやてさんを落ち着かせる程度には、冷たいものでした。
紺碧の瞳は、主と同じように、静まり返っていました。

「でも、違うだろ? 元に戻らないし、フェイトも受け入れてる」

それで元に戻るのなら、きっと。
万が一、記憶が戻らないあの人が、彼女の身に危害を及ぼすのなら、絶対。
彼女の半身たちは、それこそ、何だってするでしょう。
主のために、己を顧みず、どんなことであっても。

「あの時とは違う。今がこんな状況でも、あいつがフェイトを傷付ける気がないってのはわかってる」

けれど。

「それに、フェイトが、望んでないんだ」

主の願いは。

「あいつが笑ってれば、それでいいんだ」

ひとつだけなのです。

「フェイトの望みを裏切れるわけないだろ」

はやてさんは言葉を返すことが出来ませんでした。

















その傷に触れられるのは一人だけ。
一人だけ、いたはずだった。



















「私と、フェイトちゃんって、友達だったんだよね?」
「なんや、いきなり」

静かに切り出された声に、はやてさんは目を丸くしました。
先日のアルフとのやり取りを思い出していた休憩時間に訪れた親友は、曖昧な笑顔を浮かべて少し話がと告げたのです。
はやてさんに視線を合わせることはなく、中空を見上げて、ゆっくりとなのはさんは続けます。

「今はもう、友達なんだけどね。でも、前から友達だったって言われても、やっぱり信じられなくて」

部屋にあったアルバムにも、彼女は変わらず微笑んでいました。
それに、どうしても違和感を感じる自分がいるのです。目の前にあるものと、自分の記憶が合致しない。霞がかったものでもない、白く塗りつぶされているわけでもない、黒く変色しているのでもない。ただ、何もないのです。
皆が見えているものが、自分だけ見えていないような疎外感。

「皆で、私のことからかって、騙して、あとで驚いた? って言われた方が納得する、かな」

小さな自嘲と冗談をあわせたような言葉。

「そんなんふざけてでも言うたら許さんで」

それを叩き割ったのは、明らかな怒気を含んだ声でした。
何度目か。その怒りに晒されてきたなのはさんは読み取れない表情ではやてさんを見ます。
蒼と藍が交叉して、ゆっくりとそらされたのは藍でした。

「堪忍、言い過ぎたわ」

消化できない感情を持つのはどちらも。
やるせない思いを持つのもどちらも。
なのはさんの視線は、膝の上で握り締めた、己の手。

「知らない人、なんだよ」
「もう友達やろ」

それは事実。

「うん……、けど、知らない人なの」
「さよか……」

フェイト。なのはさんは、その人を知らない。
けれど、これもまた事実なのです。



























誰しもが憤る顔を見せる。
そんな顔させたいわけじゃない。そんな顔される謂われはない。
そんなの、知らない。
忘れていると言う。忘れていないのに。
誰のことを。一人だけ。
知らない。今は知っている。
忘れてもいいと言う。忘れていないのに。
貴女のことを。一人だけ。
貴女だけが微笑みを見せる。
大丈夫。今はもう。知ってるでしょう。
今は。これからは。
昔は。これまでは。
貴女だけが笑う。
皆が、笑わない。
そんな顔、させたいわけじゃないのに。



























「何も出来へん」

乾いた声。
高い天井を仰いで、その目を自身の腕で隠したはやてさん。

「何にも」

埋もれるように椅子に座り、独り言のように呟くそれがある人への語りかける言葉だと気付く人は、この執務室には居ません。
その手には、黄金色の剣十字。

「どないしたらええんやろ」

空気に溶けた声。
沁み込むのは、憤りか、哀しみか、憂いか。

「なぁ、リインフォース」

その全てを受け止めて、剣十字は静かに、慈しむように、輝いていました。
大切な者を、心の中心を、無くすと言うことが、どれほどのことか。

「忘れていいわけ、ないやろ」

止まってしまった歯車を補えなければ、周りから、崩れていきます。




























「えっと、どうしていきなり?」
「迷惑だった?」

そんなことないよ、とあわてて頭を振るフェイトさんを見て、自身が卑怯だと自覚するなのはさんは、今、フェイトさんの寮の自室の前にいました。
質問に質問で返す。そして返した問いにフェイトさんがどう感じるかなんて、短い付き合いであってもわかりきっていたのです。決して、拒絶しない。何故か、わからないけれど。
フェイトちゃんの部屋に行ってみたい。
そうなのはさんが言ったのは先日のことでした。
未だ自覚すらない、記憶の喪失。それを少しでも補おうと努力をしようとした結果。それが、フェイトさんの部屋に赴くと言うことだったのです。

「どうぞ」
「お邪魔しまーす」

いくらかの照れと共に通された室内。
なのはさんからすれば、初めて訪れたフェイトさんの部屋。
まず、違和感に気付くなんてこと出来るわけがないのです。

「フェイトちゃん、写真好きなの?」
「あ、うん」

目についた、ベッド脇の大きなコルクボード。
小さな頃から、最近に至るまでの、写真。
もちろんなのはさんも映っているそれに視線を巡らせながら、やはり覚えがない光景に申し訳なく思いながら、写真一つ一つ指差して、その時のことをフェイトさんに尋ねます。
今までの記憶に、フェイトさんが語る思い出を描き加えていく。
そんな、会話。
嫌な顔一つせず、ゆっくりと話してくれるフェイトさんに、底抜けの優しさに心地よさと罪悪感を感じながらなのはさんは相槌を打ち、記憶を補正していきました。
コルクボードの写真に、二人きりのものがひとつとしてないことに、気付かないまま。


























覚えていないのか、という。
誰のことを。
もう知っている。
彼女のことでしょう。
覚えていないのか、という。
わからない。
だってもう知っているのに。
だから覚えようとした。
パズルのピースに色を足していく。
元々ある景色に、色を足していく。
ほら。そこも、ここも、彩りが増えていく。
足されていく。足していく。足してくれる。
ピースに色が増える。
絵は出来ているもの。出来上がっているピースに、そこに色を足していくだけ。
色が少し、増えただけ。
ピースの数は、変わらない。
























抜け落ちたものに、気付けない。
























フェイトさんが部屋に戻ると、そこに居たのはベッドに横たわるなのはさんでした。
目を丸くし、それでもすぐに微笑みを浮かべてフェイトさんは静かに手にしていたマグカップをローテーブルに下ろします。
壁に背を預け、視線の先は眠るなのはさん。教導だけではありません。変わっていないのに、変わってしまった周りへと順応するのにも、疲れていたのでしょう。力の抜けた身体と、安心した表情。その寝顔は、前と、変わることはなくて。

「ん、む・・・にゅ」

むずかる様な微かな声。それが、フェイトさんが自分の行動を自覚する引き金になりました。
なのはさんの頬に伸びた、己の手。
無意識の行動。それは、自然の行動、だったもの。
触れようとしていたそれを止め、フェイトさんは腕を引きます。無表情に見詰める、己の手。

「触れて、どうする」

瞼を下ろすと共に、白くなるほどに、爪が深く突き刺さるほどに、強く握られた拳。
短い息をつき、瞼を上げれば、フェイトさんの瞳に映るのはなのはさん。フェイトさんのベッドで眠るその姿が、記憶を呼び起こすのは必然。
名前を、眠る人の名を呼ぼうとして、フェイトさんは口を噤みました。
そして手に取ったのはローテーブルに置かれていた飴。空気を震わすことを、無意識にでもしないようにそれを口に入れます。
から、ころ。脳を反響する硬質な音と、打ち消していく記憶。
ぼんやりと見詰める、なのはさんの顔。

(ねぇ)

頭の中で呟く言葉。
空気を震わせることの決してない、脳を揺さぶるだけの思考。

(どうして、私の部屋で、そんな風に眠れるの)

力の込められた、拳。
封じるように握られた手。

(ねぇ、何されるかわかんないよ)

なのはさんが、フェイトさんの部屋で、眠る。
前であれば、今となれば。
残酷なまでの違いは、フェイトさんの心をえぐります。
瞳を閉ざし、重ねて目を覆う手。胸元の服をきつく掴み、閉ざされた視界。
届かない言葉。

(馬鹿みたいだ)

漏れることのない笑いは口元の歪みとなって。
握り潰したはずの想いが残っていることに苛立って。
それすら、もうどうでもいいこと。

(友達に、何されるっていうんだ)

がきり。
飴を砕く、嫌な音。
鋭利な破片はフェイトさんの舌を傷つけます。
滲みだす紅は、口内に広がって。

(まずい)

内にため込んだ言葉のように、苦いものでした。































皮肉か。偶然か。
そのロストロギアは、はじまりのロストロギアを彷彿とさせる宝石の形をしていました。
見上げた先。丸みを帯びた八面体の、ルビー。
解析機器の中、浮かぶそれはさながら博物館の目玉。
ロストロギア第一保管解析室。
そこに訪れた彼女を見て、誰も声を掛けませんでした。
渦中にして、蚊帳の外。異様にして、自然。異常にして、不変。相容れない状態の彼女。
この部屋には何度も何度も、彼女と、そして当事者の関係者が訪れていましたが、彼女自身が足を踏み入れたのは初めてでした。
静かに、それを見詰めていた彼女の手の中。
無機質な声に彼女が金色を見詰め、再び視線を上げた瞬間。

〈CAUTION!! CAUTION!!〉

周囲を照らし明滅する赤い照明。響くサイレン。
閉まる隔壁と同時に慌ただしくなる研究員たち。

「魔力放出量上昇!!」
「放出レベル、すでに危険値を突破!!」

音を立てて軋む解析機器。
危険を知らせる照明とは別に、自ら輝く宝石。その色は、赤。まき散らす様に辺りを染めていく、光を増す赤。
それはさながら、噴き出す血のよう。

「原因は!?」
「不明です!!」

その赤を浴びながら、彼女は考えます。
原因など、ひとつ。
この宝石に触れたのは、一人だけ。
つまり。

〈CAUTION!! CAU…………〉

不意にぴたりと止むサイレン。正常動作にフェードシフトしていくシステム。オールグリーン。開いていく隔壁。
その場に居た全員が虚をつかれたように何も発しなくなった宝石を見上げる中、映しだされるモニター。
切羽詰まった、医療班の。

“高町教導官が倒れた!!!”

悲鳴に似た報告。
その声に戦慄する研究員たちの一人が部屋を見回せば、彼女は、もう居ませんでした。





























連れてこられた資料室。
それも、機密事項閲覧が可能な、特別なモニターがある場所。
なのはさんは指示されるままに、そのモニターを見詰めました。
表示されていた資料は、一つの事件のこと。
なのはさんがこちらの世界に入るきっかけとなった、始まりの事件。
何故今更。そんな考えは後ろに佇む二人の重苦しい無言に発することは出来ず、ただ資料に目を通すことしか許されませんでした。
遺失遺産の違法使用による次元災害未遂事件。
事件NO.AP0057564155-C735542。



PT事件。


モニターいっぱいに表示された、文字、映像、グラフ、写真。
その大半をなのはさんは覚えていました。当事者だったのです。覚えていないわけがありません。
この事件の首謀者は。


プレシア・テスタロッサ


事件の頭文字は、彼女の名前からきています。
娘のために世界を対価にした母親。
Testarossa。
なのはさんに浮かぶ疑問。つい最近、これと同じ文字の並びを、どこかで。
どこで見たのか、それを考えながらも進む視線。


****・******によるジュエルシードの封印


文字が、読めない。
網膜に映っているはずのその形が、視神経を通っているはずの情報が、認識できない。
そして、その代わりとばかりに、神経から入り込むような、熱した釘を穿たれるような、頭痛。
いきなりの痛みに崩れた首。落ちた視界に映る、文末。


その後****は魔道生命体プロジェクトの産物であり、プレシアの娘****のクローンであることが


文字が、読めない。
別のモニターに流れる映像。白いBJを羽織った幼き日の自分と、黒いBJを纏う***。解らない。顔が見えない。人。もう人なのかもわからない。何が映っているのかわからない。見ているのに、何もない。
後ろで誰かが何か言っている。****。誰。****。何。****。知らない。解らない。何も。ない。白。黒。無。
視界に入れる度に、映り続ければ続けるほど反芻する痛み。
視界に映る。****。

「あなた、は、だれ」

受容範囲を越えた痛みに、なのはさんの意識は途切れました。



















白い部屋にいるきみを見ると、そのまま融けて消えてしまいそうで、恐いんだ。




















白い。白い部屋。
壁。天井。床。そして、寝具。
白で統一されたその部屋に、いい思い出など何もありません。
フェイトさんは、その部屋のベッドに横たわるなのはさんを見詰めていました。

「どうして」

その後ろには、義兄と、義母。
沈痛な表情の二人に、言葉を許すことのない声で、フェイトさんは続けます。

「どうして、あの資料を、見せたんですか」

はじまりの、事件。
彼女と彼女の、最初の物語。

「私は、私個人としての意見を言っているのではありません」

フェイトさんは、何が起こったのか全て聞きました。
数歩、ベッドから距離を置いた位置に立って、それを聞いていました。
決して、視線をなのはさんから逸らすことなく、決して、なのはさんに近づくことなく。

「時空管理局の執務官として、艦隊提督と、総務統括官に」

あの宝石の効果は記憶喪失。喪ったことを想うのが、死に等しい苦しみだったからこそ。思い出すことは、禁忌。
医療機器から聞こえる落ち着いたバイタル。穏やかな寝息に近い吐息。
今ある姿は、あのモニターから引きはがすのが少しでも遅ければ、もしかしたら。

「エースオブエースを失ってもいいのか、と言っているんです」

翼を傷付ける程度では済まない、どう足掻いても覆せないことになる前に。

「特定閲覧不可の検討と、緘口令の施行を、提言します」

誰にも、彼女と彼女の繋がりを思い出させる起因を、与えないように。

「如何ですか」

振り向いたフェイトさんの瞳は、静かでした。
そうして、ふっと、緩めた表情は。

「ごめんね、クロノお兄ちゃん、リンディ母さん」

困ったような、笑みでした。






























ヴィータさんが探し回って行き着いた先は、なのはさんの病室の前でした。
未だ酸素マスクが宛がわれたなのはさんを見詰めていたフェイトさんは、ヴィータさんの存在に気付くと、やはり、口端を緩めました。

「笑ってんじゃねぇよ」

ヴィータさんは吐き捨てます。
怒りは、とうに限界を迎えているのです。
この事件に関わる、全てを知っている人に、下された命令。
それを聞いて激昂したのはヴィータさんだけではないはずです。

「いいのかよ」

握りしめた拳が震え、ともすれば目の前の人に殴りかかりかねない衝動を抑えて、ヴィータさんは絞り出します。

「忘れられちまったままで」

先日と同じでいて、先日とは違う意味合い。
彼女が、彼女を、忘れたままでいること。
フェイトさん個人ではなく、命令という行使力を以ってしてそれはなされようとしていました。

「お前を知ってるなのはが、いなくなっても」

ヴィータさんは視線を逸らすことはありません。フェイトさんもまた、逸らしはしませんでした。
一呼吸。叩きつけるような言葉。

「消えてもいいのかよ!!」

見据えた紅が、少しだけ揺らいで。



「消えてない!!」



一瞬だけの劫火。

「消えて、ない」

紫色に猛った雷炎は、瞬きと共に消えていました。
続いた声は、とても、静かなものでした。
病室の、ガラス張りの縁に右手を添えてフェイトさんは、ゆっくりと言葉を吐き出します。


「いる」

「いるよ、なのはは」

「ほら」

「見えるでしょう」

「なのはだ」

「ベッドで寝てる」


愛しむ視線の先には、なのはさん。
言葉を返せず、ただその姿を見詰めるしかないヴィータさんの鼻を突く焦げたような匂い。
先ほどの叫びと共に響いた、破裂音。握りしめた、フェイトさんの左手。
細く揺らめく、煙。
おそらく、彼女の雷が、彼女自身を苛んだのでしょう。


「なのはは」

「すぐそこに」

「傍にいる」


それを気にすることなく、もしかしたら気付いていないのか、それとも、慣れてしまったのか。
静かな紅は、変わらず、なのはさんを見つめています。

「あの時とは違う」

掠れた、声。

「喪ってなんか、いない」

紅が。見ているのは。誰なのか。

「いるんだ」

彼女の最初、かつて一番だった人は。
もう、いない。




























目が覚めて、目に映ったのは白い室内。
眩しさを感じて腕で光を遮ろうとはしたものの、身体は酷く重く、言うことを聞きません。
どうして、また、ここに。
そんなことを考えても、思い出すのは、話があると呼び出された記憶。それ以降は、何も。
疲れて倒れてしまったのか、あとで謝りに行かなくては。ぼんやりと考えて、視界に映る赤髪。

「起きたか」
「ヴィータ、ちゃん」

ベッドのすぐ傍に立っていたのは、ヴィータさんでした。
少なくとも、病人に対するものでは決してない、鋭い光がその瞳にはありました。
ゆっくりと、開かれた口。

「覚えてるか?」

何を。どれを。
きっと、答えは同じ。
ヴィータさんが望んでいるであろう言葉を答えることが出来ないなのはさんは、口を噤みます。
誰も。彼も。
皆。

「もう、いい」

どうして、そんなつらそうな顔をするのか。
なのはさんには、わからないまま。
小柄な背中を見送り、また、なのはさんの意識は融けていきました。































焼け爛れた皮膚を白い布が覆っていくのを、はやてさんは見ていました。
アルフが治してくれるから、と治療を拒んだその人は、その視線に気づいて首を傾げます。
藍色は憤りと遣る瀬無さを含んでいながらも、とても落ち着いていました。

「初めからやり直すつもりなんか」
「初めから、じゃないよ。友達をやり直すんだ」

そしてフェイトさんは気づきます。
はやてさんのその手に納まる、黄金色の剣十字。

「あたしは、あの子のことを忘れたままなんて、出来ひんかった」

はやてさんが思い描くのは。
眠ったままでいてほしいと願った、自身を忘れることを願った、彼女。

「自分の意思で、あの子のこと、思い出して」

ずっと傍にいた、彼女のことを。

「名前を、呼んで」

名前を、与えて。
はやてさんが胸元に触れさせた、剣十字。

「今も、ずぅっと、ここに居る」

フェイトさんが見た藍色は。

「あの子がいないあたしは、あたしやないよ」

かつて見た誰かの目ととてもよく似ていました。




















心の中心に住まう人。




















面会時刻を過ぎた夜。
無理を通して、なのはさんが眠る病室に一人。

「なのは」

微かな声は、静寂に溶けます。
僅かな月明かりに金色が静かに煌めいて、黒い衣が闇に同化して。
その手には。白と、黒。

「苦しませたら、ごめんね」

そう言って去って行った人。
サイドテーブルに残されたのは、その人が手にしていたもの。


































医師が去った後、手元にあるものに何気なく視線を落としていたなのはさん。
その病室に訪れたのは、烈火の将。
短い見舞いの言葉に、何とか繕った笑顔を返したなのはさん。
長い沈黙を経て、シグナムさんが口を開きます。

「苛立っているようだな」

改めて見たシグナムさんの顔は、何の感情も浮かべていませんでした。

「無理もない」

「お前に近しいもの全てが、お前に対して憤りを感じているのを、わかってるんだろう」

淡々とした声は、気味が悪いほどに無色。

「お前が煮え切らない思いを抱いてるように、私たちも行き場のない思いを抱いている」

「自分が、情けない」

ぎり、と奥歯を噛みしめた音。
力が入りすぎて血すら流しかねない拳。
瞼の裏に浮かぶのは憔悴した主と、空蝉の好敵手。

「何も、何もできないッ」

怒気すら孕んだ声は、しかしすぐに消えて、残るのは静かな視線。
そんな姿を見ても尚、何も想うことすら出来ない自分を、どこか遠くに感じながらなのはさんはシグナムさんを見ていました。

「それが何なのか、わかるか?」

示されたのは、なのはさんの手にある、白と、黒。
リボン、と呼ばれるもの。
今朝起きたらサイドテーブルに置かれていたそれを、手に取っていたのです。どうしてか、触れていたいと思ったのです。
これが、何なのか。
どういう用途に使うものなのか、そんなことを聞いているのではないでしょう。
だから、なのはさんは口を閉ざします。
知らない、のです。

「そうか」

溜息すら発さず、シグナムさんは背を向けます。

「お前なら、と」

扉をくぐる前、小さな声。

「思っていたんだがな」



















左手の火傷を治療するのは何度目かわからない。
治癒魔法で痕は残らない。けれど、心の痕は消えない。
大丈夫だよ。
そう笑うのを、見ていた。
あいつとよく繋いでいた掌が、焼け焦げていく。























幾度とない検査を経ても、やはり、どこも異常が見つからず。
自宅療養が命じられ、なのはさんはそれに緩慢に頷いて、黄昏が染める病院の廊下を歩いていました。
面会終了間際のこの時間、廊下には、特別個室棟であるこの場所では殊更、人通りはありません。
そんな廊下の一画にある、小さな待合場所。そこのソファに、誰かの使い魔なのか、知らない亜人が、一人。
黄昏がより濃く染めた橙色の毛並み。額の宝石と、その双眸が光を灯していました。
ザフィーラさんの様な狼素体なのか、そう考えながら彼女の前を通り過ぎて。

「なあ」

突然の呼びかけに立ち止まります。
振り向いた先には、亜人が一人。ソファに腰を下ろしたまま、どこか虚空を見詰めたまま。
けれど他に誰も居ないこの場で、先ほどの呼びかけは確実になのはさんに向けられたもの。

「自分の名前が、それが自分のことだって、何でわかると思う?」

唐突で、妙な質問。
戸惑うなのはさんの目に映る亜人は、答えを求めてすらいないのか、続けます。

「誰かが呼んでくれるからさ」

「それが、自分だって、認識するからさ」

問いの答え。
自分を自分だと認識するためのもの。
誰かに、呼ばれるための、もの。
口を開こうとしたなのはさんを止めたのは、ようやくこちらを見た亜人の瞳でした。
冷たくて、誰かに似た、瞳。

「高町なのは」

亜人が呼びます。
なのはさんを、呼びます。

「あんたのこと、尊敬してたよ、大好きだった」

「あと、言ったことないけど、実は少し嫌いだった、羨ましかったんだ」

亜人は、抑揚のない声でした。
感情を抑えつけたような、声でした。

「あんたはあたしから全てを奪った」

「ぽっと出で、そうさ、二カ月もたっちゃいない」

「全部、綺麗に奪っていった」

なのはさんは、この亜人のことを知りません。
何かの任務の時に会ったのか、それとも被害に巻き込まれてしまったのか、遡る記憶。
けれど、何も引っかかりません。
亜人は、続けます。

「そして」

「本当の全てを与えてくれた」

「本当の全てに、変えてくれた」

何の事を言っているのか、なのはさんには解りません。
亜人のことなのか。それとも。
知らない。
なのはさんの考えを読んだのか、亜人は口端を歪めます。疲れた、無理に作った笑み。

「あんたが忘れてるのは一人だけ」

「だから、あたしのことも知らない」

亜人は立ち上がります。
佇むしかないなのはさんの前までやってきて。一呼吸。

「どうして」

目の前で歪んだ亜人の表情。
気付いた時には痛みすら感じるほど強く掴まれた肩。揺さぶられた脳。

「あんたが差しだしたんだろ! その手を!!」

「あの子はその手だから掴んだんだよ!!」

慟哭。
悲痛な、音。
その全てが、なのはさんには届きません。
その意味が届きません。
蒼に戸惑いしか浮かんでいないことを見てとった亜人の身体が崩れます。
それを支えるようになのはさんは膝を折り、項垂れたその頭を見るしかありません。

「あんただから、あたしは、…………」

未だ肩に食い込んだ手。
震えた声。

「言葉を伝えたのは、届かせたのは、」

廊下に落ちた雫。

「****の名前を、呼んだのは、あんただろう……」

誰の名前か、わからない。


























あの時とは違う。
誰も喪っていない。
けれど、あの人の中心は、喪われてしまった。


























消え入るような謝罪を残して去って行った亜人。
現実味のない、ふらついた足で辿り着いた自室。
音もたてず、明かりすらつけず、薄闇の中。
ベッドに座りこんで、目に留まったのは写真立て。
幼い日の、あの時のもの。私が知る過去。私の知らない人。
ふと、写真立てを手に取って、裏を見た。
留め具が一つ、外れていた。
他の留め具に指をかけて。外して。外して。外して。
外れて。


幼い日の写真に、隠された。


もう一枚を。


見つけた。

























自宅療養になったと聞いていました。
フェイトさんは仕事帰りのその足のまま、なのはさんの部屋へと向かっていました。
そうして、扉の前。
インターフォンを鳴らしても音沙汰なく、どこかに行っているのかとしばらく考えて、触れたコンソール。
抵抗なく開く扉。

「なのは?」

明かりもつけず、鍵がかかっていないことを不審に思いながらも、室内に足を進めます。
もしかしたら倒れているのでは、そんな最悪の事態が頭をかすめて、僅かな光源を頼りに見つけたのは、ベッド脇に座りこんだなのはさん。

「なのは、どうしたの? どこか痛む?」

慌てて駆け寄って傍に屈めば、反応はなく。
フェイトさんが眉をひそめると共に、その、手元に、見つけたのは。

「どうして」

自身の寝顔が映った、写真。
心臓が急激に冷えていく感覚。なのはさんの手にある、写真立て、外された留め具。そんなもの。知らない。
倒れているどころの話ではない。フェイトさんが最も恐れていた事態。
振り向いたなのはさんの顔は、色々な感情がぶつかり合い、混ざり合っていました。
どん、と衝撃。掴まれた服。詰め寄られた身体。フェイトさんの目に映る。

「ねえ! 何で貴女の写真があるの!?」

泣き顔。
胸元の服ごと握りこんで、潰れかけた写真に映ったその人。
無防備な寝顔を、それこそ隣から収めたであろう、その写真。
ただの友達であれば、収めはすれど、こんな場所に決して隠さないであろう、その写真。

「私の何だったの!?」

限界だったのです。
どうしようもない感情。
誰しもが自分を責めている。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして彼女を知らないのかと。

「知ってるんでしょう!?」

私が知らない貴女は、私を知っている。
貴女が知ってる私を、私は知らない。
貴女は。



「貴女は誰なの!?」



わからない。
縋りついたその人のことを、なのはさんは知らないのです。
なのはさんが見詰める先には、執務官服を纏った金髪の綺麗な人。
名前も、年齢も、性格も。それは、知っているのです。
でも、わからないのです。
自分との、関係が、何なのか。

「私は悪くない!! なのに、皆が私だけが悪いって言うみたいに!!」

「悪いことなんてしてない!! 私は何もしてない!!」

「どうして、私だけが!!」

思い出すのは皆の表情。
誰しもが浮かべた怒りと悲しみ。
全てがなのはさんに向けられていました。
たった一つの、皆と、なのはさんとの、違い。
目の前の人を。
覚えていない。
知らない。
この人を。

「貴女のことなんて、 ッ!!」

叫ぼうと吸いこんだ息。苛んだ激痛。
あまりの痛みに一瞬息を忘れて、詰まった呼吸。
遠のく意識。
ぐらりと揺らいだ身体を支えたのは、あたたかい身体でした。

「考えないで」

耳元で、静かな声。
細い糸で繋ぎとめた意識に、とくとくと注がれる、言葉。

「きみは悪くない」

「何もしてない。きみは何も悪くない」

「誰も、きっと、悪くない」

包み込んでくれた腕は、何よりも優しく。
残った力で上げた顔。金色。紅色。目に映るのは、穏やかな、笑み。

「貴女、は、」
「今は、きみの友達、そうでしょう?」

歪んだ写真は、いつの間にか手の内にはありません。

「友達になろう、そう言ってくれたのは、なのはだよ」

あの時、そう言ったのは。

「ともだち」
「そう、ともだち」

瞼が、重い。
拍動を繰り返す痛みは、意識をさらに削いでいきます。
考えようとすれば、増していく痛み。記憶を喰らう頭痛。

「でも、何で、全部、知って、皆、だって、黙って、どうして、」

落ちていく瞼。
暗くなる視界に映る、何度目になるかもわからない、困ったような、あの、微笑み。

「考えないで。今の私は、きみの、なのはの友達だよ」

寂しげな紅を目にして、なのはさんは瞼を完全に下ろしました。

「ごめんね、なのは」

意識を落としたなのはさんの頬を撫でて、フェイトさんは零します。

「今度は友達にさえ、なりそこなっちゃったかな」

今一度だけ、その身体を抱きしめて。

















呼び声が、聞こえない。















心が求めているのは。

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