Who am I ? 1







声が、聞こえない。

姿が、見えない。

白に染まる。

黒に染まる。

色が、抜け落ちる。

消える。

消える。

消える。

消えないで。







「   」








誰?































通路を行き交う人々全てが彼女を眼で追いました。
それはいつものように容姿から惹きつけるものではなく、驚き。
彼女が、フェイトさんがあれほど焦り、急いでいる姿を見たことがないのですから。


高町教導官がロストロギア保護任務で負傷した。


それがフェイトさんの耳に届いたのは帰港してすぐ。
先日の通信で見た笑顔と声が反響する中、フェイトさんの奥歯が嫌な音を立てます。
蘇る記憶は、白に滲む紅の鮮烈。
ベッドに囚われた彼女。翼を縫われた彼女。蒼に焦がれる彼女。
どうしようもない不安と焦燥。
崩れ落ちそうになる足。それでもフェイトさんは駆けていました。

「フェイトちゃん!」
「はやて」

医療区画の一番奥。
集中治療室の、隣の病室。それは、峠を越えた証拠。
少しの安心と、続く焦燥。
その場にいるのは見知った顔ばかり。その人たちを視界の端に収めて、フェイトさんは扉の前に居るはやてさんに駆けよります。
取り乱すことなんてしません。あの時とは違うのです。
フェイトさんもはやてさんも、成長していました。

「なのはは?」
「命に別条はあらへん。身体もリンカーコアも脳波も大丈夫や」
「そ、っか……そうなんだ」

少しの安心が少しずつフェイトさんの心に降り積もります。
桜の花弁のように、一片、一片。
桜色が濃くなります。

「ただ」
「ただ、何?」
「事故の、ショックなのかわからんけど、あのな」

眼を伏せ、口ごもるはやてさん。
フェイトさんが視線を巡らせば、見知った顔が全て、曇っていました。
何かが、ある。答えはそれだけ。

「はやて」
「……」
「私は、あの時の私じゃない」

はやてさんが見たのは、あの時と同じ澄んだ紅、そしてあの時と違う強い紅。
ゆっくりとはやてさんが扉の前から退き、フェイトさんに示された道。
躊躇うことなくロックを解除して、フェイトさんは部屋へと進みます。
白い、白い部屋。
窓から注ぐ陽光に栗色が輝き、ベッドの上で上半身を起こした人が来訪者に気付きました。
紅と、蒼が、交叉して。

「えと、ごめんなさい」

困ったような笑顔と共に紡がれたなのはさんの言葉。




「貴女は、誰ですか?」




フェイトさんの心に積もりかけた花弁は、風に浚われました。



















  を喪った。



















静寂が室内を包み込みました。
なのはさんが見詰める先には、執務官服を纏った金髪の綺麗な人。
それしか、わからないのです。
名前も、年齢も、性格も。
自分との、関係も。
何もかも。
澄んだ紅い瞳。ただ呆然とこちらを見つめるそれを見つめ返し、なのはさんは言葉を待ちます。何も知らないなのはさんに与えられる答えを待ちます。
沈黙が続き、不安を感じ始めた頃。その人は微笑みました。誰しもを安心させるような、微笑みでした。

「いきなり、ごめんね」
「あ、いえ……」
「私を、知らない、かな?」
「あの、どこかで、お会いしましたか? すみません、私が」
「ううん、いいよ」

続く言葉をなのはさんに言わせないために、その人は言葉を遮ります。

「私は、フェイト・T・ハラオウン」
「フェイト、さん?」
「同い年だから、さん、はいらない」
「あ、年上かと思ったけど、同い年、なんだ」
「うん」
「それで、あの、私とは」

問いの続きを聞かず、フェイトさんは続けます。


「きみと、私は」


自分たちの。自分たちは。


「友達、だった」


困ったような微笑みで、そう告げました。























目の前の人は、自分の友達。
全く身に覚えがない話に戸惑いを隠せないなのはさん。
知らない人が、友達だと言う。
つまり、記憶がないと言うのか。違う。記憶はある。自分が自分であり、どうやって今までの人生を歩んできたかも、全ての記憶がある。
だからこその、戸惑い。

「あの、私、友達って、え、っと」

受け止めきれない事実がなのはさんの前にはありました。
だって、知らないのです。彼女を。それなのに、知っていると言うのです。彼女は。
少なからず、彼女に恐怖を抱かずに入れないこの状況。

「……嘘」

吐息と間違えかねない声に、フェイトさんは眉を下げました。

「ごめんね、困らせて」

それこそ、信じられないこと。
性質の悪い悪戯ではないかと考えるのが当たり前のこと。
なのはさんは、知らないのです。

「でも、嘘じゃない」

けれど騙すなんてこと、この人がそんなことを言う人には見えなかったのです。
静かな瞳と微笑みに、不審、気まずさ、申し訳なさ、それとももっと違う何かを感じて、それら全てが相まって、なのはさんは口をつぐんでいました。
それがわかっているのか、フェイトさんは問いかけます。

「いくつか、質問してもいいかな?」
「あ、うん」

決してベッドには、なのはさんには近づかず。数歩離れた位置からの問い。

「デバイスの名前は?」
「レイジングハート」

「出身地域は?」
「第97管理外世界の地球、海鳴市」

「所属は?」
「時空管理局武装隊」

「役職は?」
「戦技教導官」

「小学校からの、親友は?」
「アリサちゃん、すずかちゃん、はやてちゃん」

質問は、なのはさんにとって全て二回以上繰り返されたものでした。
この人が来る前に、見知った顔から、見慣れない表情で投げかけられた問い。
特に、ある話題になるとそれは顕著で。何故か、皆揃って辛そうな、どこか憤りと怒りを含めたような表情で。

「それじゃあ、最後に」

しかし眼の前の人がその話題に触れた時の表情は、皆とは違うものでした。
困ったような、微笑み。
それが何を示すかなど、彼女を知らないなのはさんには理解できなかったのです。

「きみがレイジングハートを手に入れたのはいつ?」
「PT事件っていう、ジュエルシードが関わった事件だけど」

プレシア・テスタロッサによる遺失遺産の違法使用による次元災害未遂事件。
なのはさんが思い起こすのは、手にしたレイジングハート。封印したジュエルシード。起こされてしまった次元震。傀儡人形と争ったこと。崩れゆく時の庭園。プレシアが虚数空間に消えたこと。
流れていく記憶の断片。再生される映像。手に入れた桜色の光で、なのはさんは。

「ジュエルシードを、封印して……」

そこで、砂嵐が入りました。
同じような質問をされた時にも起きたこと。誰かの名前を聞いた時にも起きたこと。

(あれ、誰の名前だっけ……)

記憶が霞む。
封印は、あれの封印は、デバイスがしていたはず。
走るノイズ。乱れる映像。虫食いの画像。
戦ったのは異相体と傀儡人形だけ。それだけ。それだけ。それだけのはず。
反芻しようとすればするほどに。

「頭、痛い」

色の抜け落ちる記憶。それと共にじわじわと増す頭痛。

「考えないで」

それを止めたのは、他でもない、問いかけた眼の前の人でした。
考えることを、記憶を見ることを止めたと同時に増すことのなくなった痛みになのはさんが視線を上げれば。

「ごめん、もういい。考えないで」

やはり、困ったような、そしてすまなそうな微笑みのフェイトさんでした。
じくじくと火傷のような後を引く痛み。頭に残る痛みがゆっくりと消えていく中、なのはさんはフェイトさんを見詰めます。

「きみはその事件を解決して、そのまま嘱託魔導師として、そして時空管理局の局員になって今に至る。そうだよね?」
「うん、そう。そう、だよ」
「うん。わかった」

言い聞かせるような言葉に緩慢に頷き、確認するような言葉になのはさんは思います。
そう、あれは、そんな事件だった。
プレシアという人が起こしたジュエルシードを使った事件を解決した。
その一言で、始まりの事件は、片付いてしまうのです。
そう、その一言で済んでしまうはずなのです。
違和感すら、頭痛に呑み込まれて。残るのは曖昧な、それでもなのはさんにとってはそれしかない事実。

「部屋の外に居る皆、呼んでくるね」

確認が済んだのか、フェイトさんがなのはさんに背を向けます。
その背中に、なのはさんは声を掛けました。

「待って」
「うん?」

振り返ったフェイトさんは、あの微笑み。
ああ、この人はこの表情でいることが多いんだ、そんな思いを抱きつつなのはさんは問います。

「フェイトちゃん、でいいの、かな?」
「うん、いいよ」

聞きたかったことを。
信じられずにいる、知らないことを。

「私たちは、いつから、友達なの?」

フェイトさんは瞼を一度だけ伏せて、それから答えます。

「きみが最初に関わった事件が終わった後、だよ」

その返答と、そして続いた言葉は。

「本当は、もっと早く友達になれればよかったんだけどね」

なのはさんの鼓膜に、妙に響いて聞こえました。


























開いた扉から病室に入ってきたのは、はやてさんだけでした。
何故他の人が入ってこないのか疑問を覚えるなのはさんの視線の先、フェイトさんに近づくはやてさん。

「フェイトちゃん」
「大丈夫」
「…………、何も?」
「うん」

その言葉だけ。
互いの表情は全く違うものでした。
なのはさんの疑問は増すばかりです。
もやもやしたその思考の一つを晴らすために、なのはさんは問います。

「はやてちゃんは、フェイトちゃんと知り合いなの?」

それは、純粋な質問。
そして、抉るような、問いかけ。
耐えられず激昂したのは、はやてさんでした。

「何で覚えてへんのや!! フェイトちゃんはッ」
「はやて」

声を荒げて、なのはさんに詰め寄ろうとしたはやてさんを止めたのは、他ならぬフェイトさんでした。
やんわりと、それでも有無を言わせずに掴んだ腕。制止と、懇願。
それが解ってしまうはやてさんには、行動を止める以外になく。振り仰いだ、睨むような視線を向けられても尚。

「知ってるよね。頭が痛くなるみたい、体調崩すかもしれない」
「せやかて!」
「いいんだ」

フェイトさんは微笑んだまま。

「彼女が無事なら、私は、それでいい」

それは。
心からの想いには違いありませんでした。

「それ以上、望むことなんてない」

真っ直ぐな紅に、何も言えるわけがありません。
少なくとも、はやてさんにはその言葉が見つかりませんでした。そしてそれは、病室の外に居る人物全員に言えることなのでしょう。
この言葉に返せる言葉を持つのは、きっと、一人だけ。この場にいながらも、この場にいない、あの人だけ。

「ごめんね、気にしないで」

はやてさんの突然の怒りと、俯いたその姿に困惑していたなのはさんに向けられたのは、フェイトさんの微笑み。
困ったような、そんな、微笑み。どうしてか、安心できる微笑み。
見慣れないそれは、けれども、もうなのはさんがフェイトさんを認識する上での一つの項目。
彼女は、何故だか、この表情が似合う。

「あ、あの!」
「うん?」

この数分間で与えられた情報量に思考が追い付かない中、なのはさんの口から言葉が飛び出ます。
それが何を思ってのことなのかもわからず、こちらを見つめる紅にさらに回転を遅くする頭。

「あの、こんな言い方すると、変かもしれないけど」

それでも止まらない言葉。
何を伝えたいのか解らない頭と、何を言おうとしているのかわからない喉。ただ、瞳だけはフェイトさんを真っ直ぐ見詰めて。

「フェイトちゃんと、また、友達になりたいんだ」

紡ぎ出したのは、そんな言葉。
なのはさんがその音を認識したのは、自身の口から離れてフェイトさんに届いた頃。
丸くなる紅に、丸くなる蒼。
どうして。こんなことを。
知らずに。解らないまま。
余計に混乱するなのはさんは慌てます。

「あ、また、っておかしいかな。その、えと……」

それでも、返ってきたのは。



「なのは」



名前。
なのはさんが耳にした、初めての、呼び声。

「フェイト、ちゃん」
「ありがとう、なのは」

そして、あの微笑みと。

「私と、友達になってくれる?」

柔らかな声色。

「うん!」

それは、なのはさんから笑顔を引き出すのに十分なものでした。
その笑顔を見て、フェイトさんは瞳を細めます。
ですがそれも一瞬のこと。フェイトさんははやてさんにも視線を向けて、告げます。

「ごめん、ちょっと、慌てて、仕事放り出してきちゃったから」

小さく笑い。

「また今度、来るね」

病室から消えるその背中を引きとめることができる人は、誰も、居ませんでした。
























金糸の名残を網膜に残して、その人はなのはさんの前から居なくなりました。
フェイト。
まだ名前しか、確かなことを知らない彼女。
友達だったというその人は、今はもう紛れもなくなのはさんの友達。
また来る、そう言ってくれたのですから、ゆっくりと知ればいい。そう、なのはさんは思っていました。
それより気になるのは、今も難しい顔をしているはやてさんのこと。
部屋を出る前、フェイトさんに何かを耳打ちされていたその人は、床を睨みつけていました。

「はやてちゃん?」
「へ、……ああ。堪忍な、なのはちゃん、いきなり怒鳴って」
「あ、ううん、気にしてないよ」

なのはさんに向けられたのはどこか無理をした笑顔。
その理由を知りたくても、はやてさんはきっと教えてくれない。親友のことをよく知っているなのはさんは、ただ、曖昧に笑顔を返します。

「そういや、質問に答えてへんかったな」
「何が?」
「フェイトちゃんとあたしが、友達なのかってやつ」
「あ、うん」

ベッドに近づき、その縁に腰掛けたはやてさんは人懐っこい表情を浮かべます。

「闇の書事件からな、友達やよ」
「そうなんだ、凄く仲よさそうだったから」
「マブダチやからな」

なのはさんは気付きません。
なのはさんの死角。ベッドに置かれたはやてさんの手が、白くなるほど握りしめられていることに。

「あの、はやてちゃん」
「ん?」
「あの人が、言ってたんだけど、さっきも、あのね、前から友達って、」

そう呟くと共に、なのはさんの頭に痛みが忍び寄ります。
じくじくと、削げ落とすように、苛む痛み。
なのはさんの顔が歪んだのを見てとったはやてさんは首を振ります。

「あー、はいはい、病人なんやから無理しないで寝てなあかん」
「え?」
「だいじょーぶ、なのはちゃんの回復力ならすぐ仕事できるから!」
「あ、それはちょっとやだ」
「病み上がりだろうと高町教導官は引っ張りだこやで」
「もうちょっと休んでたいなー、なんて」
「それならあたしの書類処理手伝って」
「自力でやらなきゃ駄目だよ」
「え゛ー……」

軽口を言い合いながら、眠ることを促されたなのはさんは身体を横にします。
思いの外、すぐにやってきた眠気に瞼が重くなり始めると、はやてさんが離れていく気配。

「ゆっくり、休み」
「う、ん……」

遠くなる意識と、足音。
はやてさんの、声。

「友達、だったんよ。なのはちゃんと、フェイトちゃんは」

それが、なのはさんに届くことはありません。
なのはさんの意識は、眠りに落ちていきました。



























本局に宛がわれた執務室。
幸いにも、航行任務直後だったということもあり、事後処理を引き受けてくれた補佐官はいまだ停泊中の艦の執務室。
この部屋には、誰も居ませんでした。
部屋に入ってロックをかけ、フェイトさんはデスクの椅子に身を凭れます。
仰いだ、虚空。

「は、……情け、ない」

何の制御も効かずに、ただ流れ落ちる涙。
悲しみ、苦しみ、切なさ。どれによるものかすらわかっていないのに、流れるそれ。
無表情に流れる、行き場のない感情。

「あの時の、私じゃない、だって。どこが、だ」

自分を、初めから自分として見てくれた最初の人。
フェイトと、呼んでくれた人。
自分を、認めてくれた人。



貴女は、誰ですか?



その人は自分を知らない。
それだけで、自分が誰なのかわからなくなる。
霞んでいく、フェイトという名前。
空洞になる、フェイトという存在。



「私は、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン、だ」 失敗作、じゃない



ともすれば無になるその形を支えるために、フェイトさんは口にします。
自身の名前を。

「そうだよね……、なのは……」

そして、彼女の名前を。
脳裏に浮かぶその表情は、蒼天に映える笑顔でした。

























なのはさんが入院した翌日。
仕事を終えたはやてさんが向かったのは局のデバイス整備室。目的はただ一つ。なのはさんの愛機に事の次第を直接聞くためでした。
主人と同じく検査を受けていたレイジングハートは同じく何の異常もなく、メンテナンスを受けています。
事故の記録にははやてさんも目を通していました。爆発的な魔力の放出。それがなのはさんを襲った。ただそれだけ。それだけしか、解っていないのです。
保護されたロストロギアの詳細もまだわかっていないこの状況。少しでも何かがわかれば、はやてさんはレイジングハートの元に歩みを進めました。

「お疲れさん、レイジングハート」
〈No problem. What I do for anything.〉 問題ありません。何か御用ですか?
「何回も報告してめんどいとは思うんやけど、事故のこと、聞かせてくれへん?」
〈Certainly.〉 はい。

レイジングハートから語られるのは、やはり報告書と同じこと。ただ違うところがあるとすれば、魔力の放出時になのはさんの脳波と魔力にノイズが走ったことくらいでした。
進展は、なし。
難しい表情のはやてさんは、ロストロギアの解明とは違う問題の方に話を変えます。それは捜査官としてではなく、なのはさんの友人としての、正直に言えばそちらの方が不安要素。

「なぁ、レイジングハートから、なのはちゃんに」
〈It is not possible.〉 出来ません。

切り出そうとした言葉は遮られました。
無機質な音声が伝えるのは拒否。

〈I can not speak to her.〉 彼女のことを、話せません。

彼女。はやてさんの脳裏に浮かんでいた人物。

〈Earlier, was asked.〉 さきほど、頼まれました。

先手を打たれたと気づき、はやてさんは唇を噛みます。
どうして、こういう時だけ。
はやてさんの行動を読み、それを妨げる。それが、彼女にとっての今出来ることだったのでしょう。
紅玉の明滅は続きます。

〈If pain becomes a master, and never tell.〉 マスターの苦痛になるのならば決して言わないでほしい、と。

全ては、なのはさんのために。

〈was asked.〉 頼まれたのです。

約束でもない、ただのお願い。強制力はありません。
それでもレイジングハートはそれを受け入れたのです。マスターの苦痛を望むデバイスがどこに居るのでしょうか。

〈Unless it really want, I talk.〉 苦痛があったとしても知りたいと、マスターの意思で望まない限り、私は話しません。

主人がそれでもいいと、望まない限りは。
























フェイトさんは目の前にある扉を見詰めていました。
局の寮。
まだ勤務時間で人通りのない廊下。一人、その扉の前に立っていました。

「最初に使うのが、こんな時って、何か、おかしいかな」

空気を僅かに震わせた呟きはすぐに溶け、フェイトさんが視線を移すのは己の掌。
そこには、体温が移ったカードキーが、ひとつ。

「ごめん」

短く謝罪を述べ、冷え切った錠を解きます。
来訪者を迎え入れたのは、主のいない部屋。見慣れた部屋。居心地のいい部屋。
その部屋が自分を拒絶しているかのような錯覚を抱きながら、フェイトさんは室内を見回します。

「ごめんね」

もう一度呟き、足を進めます。
目的のものの場所は、解りきっていました。

























「身体は大丈夫そうだな」
「だから大丈夫って言ってたのに」
「君の大丈夫は信用ならない」

当の患者を見ながら言われた言葉に苦笑するなのはさん。
なのはさんの病室に訪れていたのはクロノさんでした。
お見舞いと、今回のロストロギアについて伝えに来たのです。
しかしなのはさんの反応は、見舞いに対する感謝はありますが担当云々に関する反応は曖昧なものでした。
なのはさん本人は、自覚症状どころか、不都合に思っていることは何もないのです。強いて言えば、未だにベッドに寝かされていることでしょうか。

「あのロストロギアについてはまだ解析中だ。何か分かったら連絡する」
「了解しました」

しかし、周りの人には、なのはさんに近しいものにとってはその影響計り知れないものでした。
“今”のなのはさんにやり場のない憤りを覚えてしまうのです。あの人のことが欠落した、なのはさんに対して様々な感情を持て余していました。

「今回の件。僕とリンディ統括官が責任者だ。フェイトも加えられれば良かったんだが別の任務に就いていてな」
「フェイトって、あのフェイトちゃん?」
「…………知っているのか」

主治医からの検査報告書に向けられていたクロノさんの探る様な視線が、ゆっくりとなのはさんに向けられます。

「うん、金髪の綺麗な子でしょ? この前友達になったの」

微笑んで言われたその答えに、クロノさんは無表情のままでした。
なのはさんはそんなクロノさんの様子に気づかず、自分の返答にすぐに苦笑します。

「あ、なったのっておかしいよね。友達だったんだって」

伏せた視線は、シーツに乗る自分の手。

「だった、っていうのも、おかしいよね……」

思い出すのは、あの笑顔。

「私は……、覚えてないんだけど……」

なのはさんが困惑しているのは、誰の目からも解ったことでしょう。
あの人が自分の友達だったとは、信じられないのです。信じることが出来ないのです。
記憶が失われているとは、思えないのです。なのはさんにとっては、記憶は何も失われていないのです。

「知っている」

唯一の記憶といっていい、先日の笑顔を思い出していると短い言葉。
視線を上げれば、検査報告書に視線を戻していたクロノさん。

「君とフェイトのことは、僕もよく知っている」
「クロノ君も、フェイトちゃんのこと知ってるの?」
「フェイトは、僕の妹だ」

執務官仲間だとばかり思っていたなのはさんが目を丸くします。
あまりに予想からかけ離れた言葉。目の前にいる人と、あの人は、あまりにも似ていません。もちろん、リンディさんとも。

「え? だってクロノ君一人っ子だよね」
「養子として迎えた。闇の書事件の、後だ」
「え、あ、ハラオウン……」

似ていないことへの答えと、あの人が名乗ったファミリーネームを思い出しながらも、なのはさんは腑に落ちない表情を浮かべていました。
そんなことは、“知らない”のです。
始まりの事件からの知り合いであるクロノさんの、リンディさんのこと。それも養子なんていうとても大きなこと。
それを、“知らない”。

「クロノ君は、フェイトちゃんのお兄ちゃん……?」

信じられないように呟くなのはさんに、クロノさんは続けます。

「フェイトは、ハラオウン家の家族だ」

やっと検査報告書から上げられた視線は、真っ直ぐなのはさんに向けられました。

「なのは、君が一番よく、知っていたはずだ」

なのはさんがこの病室で目覚めた時から幾度となく見る、悲しさを滲ませた瞳で。

























「なのは、本当に何ともないの?」
“うん、心配掛けてごめんね、お母さん”

画面越しの娘の姿と声に桃子さんは胸を撫で降ろし。

「まったく、肝を冷やしたぞ」
“ごめんなさい、お父さん”

士郎さんも咎めるような表情。
なのはさんがあの暴発事件に巻き込まれたことはもちろんなのはさんの実家にも連絡がいっていました。
目覚めたことも怪我もないことも、管理局を通じて通達があったとはいえ本人からの連絡を心待ちにしていたのは確か。
クロノさんから言われて、慌ててなのはさんは通信を繋げたわけです。
眉を下げたなのはさんを見て、二人の顔に微笑みが戻ります。それに息をつきます。

「ところでなのは」
“何?”
「どうして目覚めたその日に連絡をくれなかったのかしら?」
“ぁ”

しかし説教は終わりではなかったらしく、それからしばらく画面越しとは言え正座で恐縮するなのはさんがいました。
説教の内容が一巡したところでやっとそれが終わり、脱力するなのはさん。

“うぅ……”
「まだ怒り足りないんだぞ」
“はやてちゃんにもすっごく怒られちゃった。無理するなって”
「そう、はやてちゃんに……」

思い出して苦笑いを浮かべるなのはさん。
桃子さんが瞼を伏せ、そんな桃子さんの様子に気付いていた士郎さんでしたが何も言わず、なのはさんに視線を向けます。

「他の人にも迷惑をかけたんだ。ちゃんと謝ったか?」
“うん、クロノ君たちにもちゃんとお礼言ったから”
「そうか……、ならいい」

士郎さんもまた、映ることのない膝の上で拳を作っていました。
画面に映るなのはさんの表情は、何も変わることはありません。両親が知る、なのはさんなのです。

「また連絡頂戴ね?」
“うん、じゃあ切るね”

久し振りの通話が切れ、消えたモニターを未だ見るようにして、桃子さんは小さく声を漏らします。

「本当、なのね……」
「ああ」

額に手を当てて重く息を吐く士郎さん。
二人は、もう知っているのです。局からの連絡が来る前に、知っていたのです。

「これでよかったのかしら」
「俺達にはこうする以外になかっただろう」

今のなのはさんのことを、知らされていたのです。
思い描くことのできる、娘の隣にいつも居た人。

「本人の、意思だ」

娘が想い描くことのない、人。























両親との通話を切ったなのはさんがそれに気付いたのは偶然だったのでしょう。
見覚えのないファイルがあったのです。
タイトルもデフォルトのまま、そんなファイル。
何となく気になって、それをクリックすればパスワード認証の画面が出てきてさらになのはさんは眼を丸くします。
こんなもの作った覚えはない、と。

「ねぇ、レイジングハート」
〈Yes.〉

傍らのデバイスに問いかければ、明滅する赤。

「このプロテクトがかかってるファイル、何かな」
〈It is the important thing of the master.〉 マスターの大切なものです。
「大切な?」

表示される認証画面を前に首を傾げるなのはさん。
機密事項の仕事がこんなフォルダにあるわけもなく、かといってプライベートモニターであるからもともと軽い認証機能が付いています。
その場所に、さらなるプロテクトがかかっているのです。

「パスワード、わかる? 忘れちゃった」
〈It is not met.〉 お答えできません。

軽い気持ちの問いに、返ってきたのは拒絶と言っていいものでした。
目を丸くして紅玉を見れば、明滅。

〈should be able to untie it. master.〉 マスターなら解けるはずです。

口ぶりから、そのパスワードを設定したのがこのデバイスだと言うことを察したなのはさん。おそらく、このファイルを作ったのも。
そしてこれ以上聞いても何も答えてくれないと解ってしまうくらいには、主に似て頑固だということを知っていました。
少し唸り、なのはさんはパスワードのヒントという項目に触れます。
そこに浮かぶ、たった一言。

「一番好きな言葉」

思い当たる限りの言葉でパスワードと戦っていましたが、なのはさんは呼び出しにより部屋を出ることになります。
結局、それは解かれることがなく。
























入院生活数日目。
一般病室の個室へと移ったなのはさんのもとには、面会時間のぎりぎりまで誰かしらが居ました。仕事の合間や休みを取って、なのはさんに会いに来ていたのです。
何度目かになる精密検査を終えたなのはさんが、病室で一息ついているとノックの音。

「そろそろ暇すぎて仕事したくなったか?」
「ヴィータちゃん」

鈍ると訓練きついぜ、そう言いながらやってきたのはヴィータさん。
ヴィータさんはからから笑いながら部屋に入り、手に持っていた紙袋をなのはさんに渡します。

「ほらよ、なのは。着替えだ」
「ありがと、ヴィータちゃん」

それを受け取り、なのはさんは少しの沈黙の後、問いました。

「……、はやてちゃん、部屋あらしてなかった?」
「いや、シャマルもついてったし、流石にそこまでしてねぇよ」
「よかったぁ」
「はやてを何だと思ってんだ……」
「だって……」

先日ここを訪れたはやてさんの記憶がなのはさんの脳内に流れます。
着替え取ってくるからカードキー貸して、と、きらきらの笑顔で告げたはやてさんに嫌な予感を覚えるのは仕方がないのでしょう。

「大丈夫、下着とか吟味せぇへんから」
「そんな真面目な顔して言われると逆に凄く不安なんだけど」
「親友のあたしが信じられへんって言うん?」
「うん」
「即答されると傷つくわぁ……」

結局シャマルさんの同行を約束させてカードキーを渡したのは言うまでもありません。そんなやり取りを思い出し、さらに苦笑を深めたなのはさん。
その表情にいつものなのはさんを感じ取ったヴィータさんは花瓶を手にして、また扉に向かいます。

「水、入れ替えてくる」
「うん、ありがとう」

背後で閉まる扉。
そっと息を吐き、ヴィータさんは花瓶を持ったまま各フロアにある休憩室に向かいました。
そこに居たのは、缶コーヒーを手にソファに座る人、フェイトさんはヴィータさんを見てとると眉を下げて微笑みました。

「ありがとう、ごめんね」
「いいけどよ……」

フェイトさんの隣に腰を下ろし、傍らに置いた花に視線を落とすヴィータさん。
医療関係者が行きかう中、静かな会話は続きます。

「何で、あたしに持って行かせたんだ? はやてはお前に渡したのに」
「ヴィータは、知らない人が自分の着替え持ってきたら、どう思う?」

そう、着替えをはやてさんから渡されていたのも、そしてそれを丁度来ていたヴィータさんに渡したのも、フェイトさん。
返ってきた言葉に眉をひそめ、ヴィータさんは睨むようにフェイトさんを振り仰ぎます。

「お前は知らない奴じゃねぇよ」
「なのはにとって私は、知って間もない人、なんだ。だから、気分がいいものではないと思う」

ヴィータさんは開きかけた口を無理矢理閉じ、反論しようとした言葉を飲み込みます。
視線を戻した先は、桜色を中心とした花たち。隣に座る人が持ってきたもの。

「はやて、怒ってたぞ」
「そうだね。怒られた」

静かに怒られるのって怖いよね。なんて言葉を聞きながらヴィータさんが思い出すのは、悔しそうに壁を叩く主。どうにもできない遣る瀬無さに泣きそうな顔。そして何もしてやれない自分の不甲斐なさ。

「レイジングハートに口止めしただろ」
「お願いしただけだよ」
「なのはの部屋にあった私物、全部持って帰っただろ」
「邪魔かなって思って」
「例のビデオレターどうしたんだよ」
「窃盗罪だよね、捕まっちゃうかな」
「それだけじゃねぇ」

ヴィータさんの語尾が自然に強くなり、今度ははっきりとフェイトさんを睨みます。
疑問と、怒り。
フェイトさんの行動。

「この数日、全部、全部、全部。手ぇ回しただろ」

自分の痕跡を消す行動。

「それしか、私には出来ないから」

そう言ったフェイトさんの表情は、微笑んでいました。

「てめぇッ!!!」

一気に頭に上った血。
置かれた花瓶が揺れる勢いで立ち上がり、ヴィータさんはフェイトさんの胸倉を掴んでいました。
見上げてくる、澄んだ紅。揺れ動かない熱。
それを見た瞬間、ヴィータさんの吐きだそうとした言葉は塵になります。どうしてこんな時に、こんな立場で、こんな状況で、こんな瞳でいられるのか、と。
気持ち悪いほどに、静かな瞳。
一番辛いのは、他の誰でもない、フェイトさんのはずなのです。
自分の行動と集まる視線にバツが悪そうに手を離し、ヴィータさんは視線を逸らします。

「悪ぃ……」
「ううん、ごめんね」

フェイトさんは目を伏せ、自身が贈った花に視線を向けます。

「私は」

咲き誇る、桜色。

「なのはに、笑っていてほしいだけなんだ」

もし。
もし、この場に、なのはさんが居れば。
全てを知っていたなのはさんが居たならば。
気付いていたでしょう。澄んだ紅に仄暗い虚無が浮かんだことに。





























ロストロギアの解析が終わったと連絡があったのは一時間ほど前。
解析に尽力していたユーノさんの元に集まったのはクロノさんやリンディさんをはじめとする担当官と、なのはさんに関係する人たちが数人。
その中に、なのはさんの姿はありませんでした。伝えるべきかどうかは、結果を聞いてからということなのでしょう。
各人の前に展開されたモニターに映るあのロストロギアの詳細。

「皆が思っていた通り、発動効果は記憶操作」

特定の人の記憶を失う。
ただ、それだけの力を持つロストロギア。
ある人を喪ったことに耐えきれなかった科学者が作りだしたもの。
その人に関する記憶を、全て消し潰す。
他の人との関わりがある記憶なら、改竄し、捏造し、朧気に、曖昧に。その違和感さえも気付かないように。
その人のことだけを、その人の存在を、使用者の頭の中から全て消し去る。
そのためだけの、ロストロギア。

「この科学者の周りの人も、あまりの悲痛さに、誰も、何も、言わなかったんだろう」

喪う悲しみは何よりも深い。
喪ったことを想うのが、死に等しい苦しみ。

「このロストロギアは何もかも思い出さないためのものだ」

思い出を失ったことも、その人のことを、喪ったことすら思い出さなければ、悲しみもない。

「思い出す必要なんてなかったんだ。周りも、それを求めなかった」

それでその人が救われるなら、それでいい。
全て、何もかも、記憶から消し去ってしまう。
そのために作られたロストロギア。

「もう察しているとは思うけど」

沈黙が続く面々の前、短く息を吐き出してユーノさんは告げます。

「このロストロギアの解除方法は、初めからない」

そこにいた誰しもが動揺にしろ、落胆にしろ、焦燥にしろ、何かしらの感情を浮かべる中。
紅いその瞳には何も浮かんでいないことに気付いた人が、果たしてどのくらいいたのでしょうか。



























「フェイトちゃん」
「うん?」

背後からの声にさして驚きもせず、フェイトさんは声の主に振り向きました。
報告会は解散し、無限書庫の一角で本を手にしていたその背中に声をかけたはやてさんは、フェイトさんが自分が話しかけてくることを解りきっていたことを悟ります。
それほどまでにその振り向いた姿は自然で、平静で、何も読み取れないものに作り上げられていたのです。

「あんな……」

一瞬の空白。
その事を口にしていいのかと言い淀むはやてさん。
手にしていた本を、あのロストロギア解析書ではなく、任務で使用する資料を閉じ、フェイトさんは眉を下げます。

「はやてが気に病むことないよ」

俯き唇を噛むはやてさんの髪を見詰めて、フェイトさんは続けます。

「なのはには、このこと伝えずにいようと思う」
「でも、それじゃ……っ」

顔を上げたはやてさんに、静かな声が降ります。

「伝えて、何か変わる?」

なのはさんは記憶を失ったという自覚はないのです。
そして、それを無理矢理に思い出さなくてはいけない理由、命にかかわる様な事は何もないのです。
あるのはきっと、フェイトさんに対するどうすることもできない、周りから押し付けられた居た堪れなさ。
伝えて得られるものは、その程度。

「なのはは」

視線を本の表紙に落としたフェイトさんは。

「昔の私のことを知らないけど、今の私のことを憶えてくれるんだ」

確かに、微笑んでいました。

「私は、まだ、なのはの記憶に残ることが出来る」

その表情の裏で何を考えているかなんてはやてさんにはわかりません。
確かに今の状態でも、友達として、なのはさんの記憶に残るでしょう。隣に居ることも出来るでしょう。
けれど。

「それだけで、十分だよ」

遺された想いはどこに行くのでしょうか。






ずっとずっと、奥底に。

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