上書きではなく、新しく



お茶の時間までには、帰れるわ。

少し疲れの見える笑顔を見上げて、フェイトちゃんはかける言葉も喉につかえたままで、頷く他ありませんでした。

















「いらっしゃい」

来客を告げる音に士郎さんが扉を見れば、そこには愛娘と、もう一人。
目が合うと折り目正しくお辞儀をするその姿に毎度のことながら頬が緩みます。
末娘が手を繋ぎたいと願い、叶えた、相手。

「いらっしゃい、フェイトちゃん」
「おじゃまします」
「なのはも、おかえり」
「ただいま、お父さん」

少し店の混雑も治まった頃だったので傍までやってきた二人に、特に末娘へと、カウンターに少し凭れて士郎さんは歯を見せて笑います。

「それで? 食いしん坊のなのはは最新作のスイーツを御所望かな?」
「もう、今日は食べに来たんじゃないよっ」

学校帰りに空かせたお腹を少し満たしに来た、というわけではなさそうです。
心外だ、とばかりにほっぺを膨らませたなのはちゃんは、続けます。
今日は、フェイトちゃんの用事で来たの。と。
士郎さんが笑んだ瞳を向ければ、唇を少し躊躇わせて、フェイトちゃんは言います。

「あの、ケーキの、予約をお願いしたいんです」
「ああ、それなら桃子の方がいいかな」

合点がいったと頷き、士郎さんは店の奥に声をかけます。
仕事の邪魔じゃないだろうかと一人慌てているフェイトちゃんを、なのはちゃんがむしろこれが仕事だからと至極真っ当に説き伏せつつ待てば。

「いらっしゃい、フェイトちゃん」

この場合逆なのでしょうが、なのはちゃんとよく似た女性が姿を現します。
パティシエであり、士郎さんの妻。そしてなのはちゃんの母親である桃子さんは、末娘の隣にいる少女を目に映して、やはり頬を緩めます。

「ご予約ですね? ありがとうございます、どちらにいたしましょうか」

事の次第を聞いた桃子さんは、おそらくわざとなのでしょうがそんな口調でケーキが収められたショーケースを示しました。
翠屋自慢のスイーツがいくつも並べられ、そのひとつひとつを真剣な表情で眺めていたフェイトちゃん。
しかしその様子が段々変化していきます。
端から端まで品を見詰めるという行動を三回は繰り返し、きょろきょろと品と品を見比べ、最終的に困り顔を通り越して顔色が青白くなっていました。
その表情から読み取れるものは一つ。
どれがいいのか、わからない。
何分、どれもこれも美味しそうなのです。
喫茶店の親子はそれが手に取るようにわかったのでしょう。桃子さんが助け船を出します。

「フェイトちゃんが食べるの?」

まずは誰が食べるのか。
選択基準の基本です。
その言葉にフェイトちゃんは桃子さんを見上げて、少し視線を彷徨わせます。

「私は、……」

答えは、返ってきませんでした。
口を噤んで、どう言えばいいのかわからないのでしょう、フェイトちゃんは徐々に視線を下げます。
桃子さんはその視線を上げるように、さらに問いを重ねました。

「誰かへのお土産?」















放課後。いつもの五人のうち、三人が用事でいない教室。
なのはちゃんが見詰め返した先には、とても真摯な紅。

「リンディさんに?」
「うん」

最近忙しく、朝から晩まで、下手をすれば家に帰ってこない人。
その人が、数日後には仕事が落ち着き、昼過ぎには帰ってくるという。
奇しくも、それはフェイトちゃんの学校がお休みの、日。
お茶の、時間だから。
少しでも安らいでほしい。その願いをフェイトちゃんが抱くのは必然だったのでしょう。

「それで、やっぱり、翠屋のケーキがいいなって、思って」
「じゃあ、今日一緒に行こっか」

考えを挟んでないと思われる返答の早さ。
フェイトちゃんの目が丸くなります。

「いいの?」
「うん」

なのはちゃんにとって、それが当たり前の答えなのです。
和らいだ紅。しかしすぐに眉が下がります。

「ごめんね、なのは。こんなこと相談して」
「もう、ごめんじゃないよ?」

なのはちゃんは少しだけ眉を吊り上げて、他にあるでしょう、とフェイトちゃんと手をつなぎます。
拗ねたようななのはちゃんの表情。
三度の瞬きの後。フェイトちゃんは、微笑みました。

「ありがとう、なのは」























脳裏に浮かんだ柔和な笑み。
桃子さんも、つられるように微笑みを浮かべます。

「そう、リンディさんにね……」
「甘いもの、好きですから」

フェイトちゃんの言葉に、なのはちゃんの脳裏には柔和な笑みと共にあの抹茶が浮かんでいました。
少し考えていた桃子さんはショーケースの中の一つを示します。

「それなら、これなんていかが?」
「うん。王道だけあってうちもこだわって作ってるから味は保証するよ!」

なのはちゃんもそのケーキを見て、頷いてくれました。
二人の視線の先、示したケーキを見たフェイトちゃん。
その表情は、何もありません。無、と言っていいのでしょう。感情を通す管を引きちぎられた、もしくは、通るものがあまりにも痛みを伴ったものなのか、そう思わせる、無。

「フェイトちゃん?」

無に色を戻したのはなのはちゃんの呼び声でした。
紅が一瞬揺れて、なのはちゃんに首を軽く横に振ります。

「ごめんね、何でもないんだ」

何かを言いかけたなのはちゃんから逃れるようにフェイトちゃんは桃子さんを見上げます。

「おすすめの、これにします。これがいいです」

そうして、その笑顔は、少しだけぎこちないものでした。
桃子さんはそんなフェイトちゃんを見詰めて、ぱんと掌を合わせます。

「そうだ。せっかくだからフェイトちゃんが作ってみない? これと同じタイプで、少し簡単なもの」
「えっ」

唐突な提案。

「で、でも、私お菓子作りなんて」
「なのはも手伝うよ!」
「私もちょっとお店を抜けて手伝っちゃうから!」

狼狽するフェイトちゃんに、握り拳の応援。
視線を士郎さんに向ければ、笑顔で頷いてくれるのみ。
迷惑。でも。どうしよう。
フェイトちゃんの心の天秤を傾けさせたのは。

〈sir.〉 

小さく聞こえた、雷光の一言でした。
フェイトちゃんは、深く頭を下げます。

「お願い、します」

任せて。
とてもよく似た雰囲気の声が、重なりました。

























夕闇の落ちる室内。
色を濃くした橙に掌を埋めて、小さく届いた主の声。

「ケーキ、作るんだ」

窺う水色に、紅は静かに微笑みます。

「だいじょうぶだよ、アルフ」

使い魔は、身を寄せるだけで、何も、言いませんでした。


























「で、きた」

練習という練習もする日もなく、早々に訪れた当日。
一発本番を見事に成し遂げたフェイトちゃんの前には、小さ目の、ワンホールケーキ。

「かんせーい!」
「うん、太鼓判です」

先生とその弟子からもお墨付きを貰え、やっと笑みが零れたフェイトちゃん。
慎重に箱に入れ、お礼もそこそこに玄関へと立ったフェイトちゃん。思ったより時間がかかり、リンディさんの帰宅まであまり余裕がありません。

「フェイトちゃん」

靴を履いたフェイトちゃんが箱を手にする前。
なのはちゃんは、静かにその名を呼びました。
振り向いた紅を、見詰めます。
過るのは、フェイトちゃんがいない時になのはさんに会いに来た橙。
どんなケーキなんだい。
質問の意図がわからず、首を傾げながらも答えて。
そうか。
それ以上何も言わず、変なこと聞いてごめんよ、と去って行った使い魔。
理由は解りません。その原因も、解りません。
けれど、なのはちゃんはフェイトちゃんの手に、自分の手を重ねます。

「だいじょうぶ、だよ」

紅は、少しだけ揺らいで、すぐに微笑みました。

「うん」

重ねた手が僅かに震えていることには、気付かないふりをしました。
























屋上に感じた魔力波動と、先の連絡。
緊張で震える足を奮い立たせて、フェイトちゃんは玄関へと急ぎます。
さしてかからず、開く扉。

「おかえりなさい」

その人が目を丸くしたのを見ながら、フェイトちゃんは出迎えの言葉を紡ぎました。

「ええ、ただいま」

その人は、リンディさんは、いつもの柔和なものに、さらに優しさを乗せた笑顔を浮かべます。
私服へと着替え、リビングのソファに座り、やっと力を抜いたリンディさんに、フェイトちゃんは近づきました。
強張った表情を見て、傾げられる小首。
短い吐息。

「かあさん」

まだ固い、呼び名。
たった四文字の、特別な、もの。
フェイトちゃんにその呼び名で呼ばれた人は、とても綺麗に、笑みを浮かべます。

「なぁに? フェイト」

そうして、娘の名を、呼びました。
フェイトちゃんは、一瞬、言葉を詰まらせて、それでも何とか続けます。

「お茶に、しませんか。ケーキも、あるんです」

その手は、白くなるほどに強く握りしめられていました。
それを、リンディさんは解っているのでしょう。解っているからこそ、笑みを深くするのです。

「あら、嬉しいお誘い。もちろんフェイトも一緒よね?」
「っ、……はいっ」

準備、します。
急いでキッチンへ駆けていくその背中を、リンディさんは見詰めていました。



















どうぞ。
紅茶で唇を湿らせていると、言葉少なに差し出されたのは、ケーキ。

「おいしいわ。ありがとう、フェイト」

口にして、そう伝えた瞬間。
対面で、一瞬だけ、フェイトちゃんが酷く泣きそうな表情を浮かべたことを、リンディさんは気づいています。
言葉が出てこないのでしょう。頷くことしか出来ないフェイトちゃん。
静かに、穏やかな時は過ぎていきます。

「また、こうやって一緒にお茶しましょうか」

リンディさんは、娘に笑顔を向けて。

「はい、リンディ母さん」

フェイトさんもまた、母親に笑顔を向けました。






テーブルには、香り高い紅茶。

そして。

赤い苺が彩るショートケーキ。






















「フェイトが作ったケーキ、美味しかったかい?」

小さなお茶会が終わり、時を見計らっていたのでしょう、アルフさんがリビングへと現れて、リンディさんにおかえりの次に言った言葉が、これでした。
ガシャン。
あまりよろしくない音がシンクから聞こえました。
使い魔とその主が目を丸して見詰めた先に、慄く人。

「アルフ、今、なんて……?」

掠れてすらいる声と、様々な感情が揺れ動くコバルトブルー。
使い魔は、眉をひそめます。

「えっ、ケーキ食ったんだろう?」
「その前」

ぴしゃりと言い放たれた声に、さらに眉をひそめて。

「フェイトが作っt」
「フェイト!!」
「は、はいッ!」

アルフさんが言い切る前にリンディさんは驚くべきスピードで、フェイトちゃんに詰め寄っていました。
ちょっと怖いくらいに鬼気迫っていました。

「フェイトが! 作ったの!?」
「は、はいっ、な、なのはと、桃子さんに、教わって……!」

フェイトちゃんはつい先ほどとは別の意味でもはや泣きそうです。
やっぱり手作りじゃ駄目だったんだ。だとかなんとか考え、怒られると身を固くして、ぎゅっと目を瞑ったフェイトちゃんの鼓膜を叩いたのは。

「だいじょうぶだよ」

使い魔の、声。
その声色は、小さな笑いと、あたたかさに満ちていました。
次いで聞こえたのは。

「食べる前に、写真、いいえ、動画で、撮っておけばよかったわ……!!!」

心の底から後悔に塗れた母親の声でした。
驚いて瞼を開けば、声に違うことなく、酷く悔いるリンディさんの姿。

「フェイトが初めて私のために作ってくれた、ケーキ……!!!」

今度はリンディさんが泣きかねないほどでした。その横で、アルフさんが笑っています。
逆に何だか申し訳ないんだか、どうしたらいいんだか。
ごちゃ混ぜになった思考であうあうと口を開け閉めしているしかないフェイトちゃん。

〈Lady.〉

それに収拾を付けたのは、硬質で、聞き慣れた声。
リンディさんの目の前に現れた、データ。サンプルとして浮かび上がるのは、さきほどリンディさんが食べていた、切り分けられたケーキの精巧な映像。
その他、ワンホール状態の写真から立体まで。どのような角度からも眺められる仕様です。
一瞬の沈黙。

「ありがとうバルディッシュ!!! さすがフェイトのデバイスね!!!」
〈Grateful.〉 恐縮です。 

そのデータファイルを掲げて小躍りしかねないリンディさんを見上げて、フェイトちゃんは思います。
何をそんなに喜んでいるんだろう。記録。何で欲しいんだろう。どうして。何で撮ってたの。
至極不思議そうに、フェイトちゃんは己の相棒に首を傾げます。

「……バルディッシュ?」
〈No problem.sir.〉 お気になさらず。

雷光は、一度だけ瞬きました。



甘いものが苦手なお兄ちゃんも、ちゃんと完食して、褒めてくれました。

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