それはまるで
なのは、どうしよう。
震える声と、今にも泣きそうな紅に、なのはちゃんが動転しないわけがありませんでした。
レイジングハートの整備で訪れていた管理局。マリエル技師との打ち合わせの合間に告げられた通信。
そこに映ったのは掛け替えのない人であり、今はなのはちゃんの出身地、管理外世界に居るはずのフェイトちゃんでした。
思わず次元転送ポートの場所までのルートを描きだした脳に響いたのは、続いた震える声。
「りんでぃさんが」
“リンディさん?”
はたりと止まる思考。
頭の中がフェイトちゃんのことでいっぱいだったなのはちゃんの鼓膜に触れたのは、フェイトちゃんの保護観察官である人の名前。
フェイトちゃんの危機だと思い込んでいた思考に、冷静さが少しだけ顔を出します。
そんななのはちゃんの様子に気づかずに、いいえ、気付くことが出来ないのでしょう。
見るからにいっぱいいっぱいの状態で、フェイトちゃんは続けます。
「り、りんでぃ、さんが、かぜ、ひいて、わ、わたし」
つっかえながら絞り出される言葉。
とても優しくしてくれる人の、体調不良。
「わたし、どうしたらいいか、わかんなくて」
どうしたらいいかわからない自分。
「くろのも、えいみぃも、いなくて」
自身より大人の不在。
「あるふも、いなくて」
自身の相棒の不在。
「でも、りんでぃさん、くるしそうで」
誰も居ない状況下。
それでもどうかしたいと強く願うけれど。
「わたし、わかんなくて、どうして」
どうにかしようとするけれど、いつも、風邪をひく側だったことを思い出して、それが誰の記憶かもわからなくなり、重なっていく不安定な感情。
不甲斐なさや、不安や、自身への怒りや、焦燥や、何よりも、恐怖。
このまま何も出来ずに。
何もできない自分に。
あの人が。
なんて。
言うか。
いらない。
反響する声。
“フェイトちゃんっ”
その、フェイトちゃんの渦巻く思考を止めたのは呼び声。
呼吸を無意識に止めていたのか、フェイトさんが息を吸い込み、上げた視線。
“フェイトちゃん”
蒼色。
感情が、凪いでいきます。
「なの、は」
“フェイトちゃん、おちついて、深呼吸”
言われる通りに深く呼吸を繰り返し、見詰めるのはなのはちゃんのことだけ。
深い蒼。それに引き寄せられるように、紅もまた、ゆっくりと落ち着いていきます。
フェイトちゃん。なのは。
何度も名前を呼び。モニター越しに、掌を重ねて。伝わるはずがない温度を、感じて。
“リンディさんは?”
「今、部屋で、寝てる」
ゆっくり、寝ているのです。
“熱は?”
「起きてる時に、測ったら、八度五分だった」
朝よりは、下がっていました。
“お医者さんは?”
「今朝、エイミィがお薬だけ貰ってきてくれた」
ちゃんと、お薬もあります。
“飲んでた?”
「うん、今朝、飲んでた」
そしてそれを、きちんと飲んでもいます。
一つ一つ確認して、少しずつ落ち着いていくフェイトちゃん。
そう。何も出来ていないわけではないのです。ちゃんと、休んで、治すために出来ることをしているのです。
“ね、フェイトちゃん”
なのはちゃんは、問います。
“フェイトちゃんは、どうしたい?”
その上で、フェイトちゃんが、どうしたいか。
紅はしっかりとなのはちゃんを見ていました。
「看病が、したいん、だ」
なのはちゃんは、微笑みます。
フェイトちゃんのその優しい心をなのはちゃんは知っています。
そして、何より。
医療班でも、大人でもなく、一番に頼ってくれたことが嬉しくないわけが、ありません。
“うん、じゃあ、なのはも手伝うね”
「うんっ」
やっと、フェイトちゃんの表情に笑みがこぼれました。
リンディさんが瞼を押し上げたのは、お昼を少し過ぎた頃でした。時計を見て、大分眠っていたことを知ります。
だるさを残すものの、朝よりは幾文も楽になった身体を起こし、その際に外された、額に置かれていた濡れタオルを握って気付きます。
タオルは、まだ冷たさを保っていました。
それを見詰めて数秒、何を理解したのか頬を緩めたリンディさんは、ベッドサイドに用意してあった体温計を手に取り、熱を計ります。
示された数字を見ていると。
こんこんこん
控え目な、ノック。
声を返すと、扉はゆっくりと開かれ。
「失礼します」
とても緊張した面持ちの被保護観察者。
扉から少しだけ離れて、それでもリンディさんにあまり近づくことはなく、フェイトちゃんは躊躇いながら言葉を口にします。
「お加減は、どうですか?」
「朝よりだいぶいいわ」
それに柔らかい微笑を返しながら、リンディさんは体温計を指先でぷらりと揺らしました。
「熱も引いてきたしね」
眠る前に計った数字よりも、低い数値を出していた表示。
フェイトちゃんがそのことに安堵の息をついたのが見てとれました。
しかしすぐに、どこか決意を秘めた瞳を向けられ、リンディさんは首を傾げます。
「あ、あの、お腹、空いてないですか?」
問い。
言われて気付く、空腹。
お腹が減ってきたってことは、思っていたよりも良いみたいね。なんて自己分析をしている間に紅が不安に染まっていくこと気付いたリンディさんが慌てて答えます。
「そういえば、少しだけ」
瞬間。
「お、おかゆっ」
「おかゆ?」
切羽詰まった声で発されたのは、単語。
首を傾げれば、ぽろぽろと零れる言葉。
「作ったんです。お粥。こっちの、世界の。風邪を引いた時の。ご飯。なのはに聞いて。あの、さっき、出来て」
どこか必死で、しどろもどろの、説明。
頬が緩むのは、仕方がないでしょう。
「頂いてもいいかしら?」
「はいっ」
返ってきたのは、嬉しそうな笑み。
そろそろと運ばれてきた小さな一人用の土鍋。
リンディさん自身がこちらの文化を知るために用意していたそれの、初めての用途がまさかこんな場面で使用されるだなんて思ってもいなかったでしょう。
かくしてその土鍋は、卵粥をしっかりと作り上げていました。
お椀にお粥をよそい、レンゲと共にそれを渡そうとしたフェイトさんに対して、リンディさんがしたちょっとしたお茶目。
「あら残念。あーんってしてくれないの?」
「えっ」
瞬きを数回。
白いほっぺが赤く染まるのを、慌て始めるのを見て、そろそろ冗談だと伝えようとした時。
無駄に力の入ったレンゲが動きました。
ふー、と軽く息を吹きかけて。
「……ぁ。……あ、あーん」
真っ赤な顔で差し出されたそれ。
これ以上ないほど嬉しそうに、リンディさんはそれを口に運び。
「うん、美味しいわ。とっても、美味しい」
心からの感想を。
もちろん、あんまりにも恥ずかしいのに頑張ってるので、ふたくち目からはちゃんと自分で食べることにしました。
食後、差し出された湯呑。
くゆる湯気から香るのは、慣れているけれど、あまり馴染みのない香り。
「お茶です。砂糖とミルクは、入ってないですけど」
そのままの、緑茶。
そう言えばお茶は風邪に良いと聞いたことがあることを思い出しながら、リンディさんは湯呑を口にします。
「美味しいわ」
程よい温度と、口に広がる風味。
一生懸命淹れたことがわかる味、とでも言いましょうか。
安心したように緩んだ口元に、リンディさんは思います。
きっと、とても心配をかけていたと。この子は、そういう子だと。リンディさんは知っています。
だから。
「ごめんなさいね、フェイトさん」
「謝らないでください」
口にしたその言葉は、受け取ってもらえませんでした。
驚いて見れば、そこには。
「謝らないで、ください」
どこか泣きそうな、紅。
ゆっくりと息を吐き出して。
「ありがとう。フェイトさん」
こちらの言葉は、どうにか、受け取ってもらうことが出来たようでした。
リンディさんがもう一度眠りに落ち、再び起きた頃には夕暮れでした。
リビングに向かうと、そこにいたのは息子。どうやら早めに帰って来てくれたようです。
微笑む母親の姿を見て、クロノ君は眉をひそめます。
「母さん、病人なんだから……」
「うふふ。治っちゃったわよ、風邪なんて」
「ぶり返しますよ」
それでもリンディさんの言葉があながち間違いではないことを顔色を見て察したのでしょう。
それ以上は言わず、クロノ君は溜息をつくだけにとどめました。
リンディさんがリビングを見回し、クロノくんに首を傾げます。起きてから未だ見ない人のこと。
「フェイトさんは?」
「ソファで寝てたからアルフに部屋に運んでもらったよ」
おそらく、気を張っていたのでしょう。ぷつりと途切れたそれがもたらしたのは眠気、というわけです。
まったく。フェイトまで風邪をひいたらどうするんだ。
なんて心配するクロノ君を見ながら、リンディさんは思います。
「クロノ」
「はい?」
息子が見たのは、本当に穏やかな、母親の微笑み。
「フェイトさんは、本当に、優しい子ね」
次いで零したこの言葉。
クロノ君はまた眉をひそめます。
そんなこと。
「何を今更」
「ええ、そうね」
二人とも、とてもよくわかっているのですから。