頭上の手
手を、恐れている。
薄々は気付いていた。彼女は大人が近づくと、警戒し、その動向を気にしていた。ある一定まで近づくことはできるけれど、それ以上近づこうとすれば彼女の使い魔が割って入った。
そして、彼女の視線は会話の時以外、手に、向けられていた。
それがどうしてなのかに気付くのが、遅すぎたのかもしれない。
「フェイト、何しているの?」
「あ、えと、漢字の練習です」
リビングで娘を見つけ、その手に純文学の本と辞書があるのに首を傾げると、はにかんだ笑顔が返ってきた。日常生活と授業で使う漢字以外を覚えている、という。
日本語を覚えるために始めた読書は、フェイトの楽しみの一つになっていた。そんな娘の姿を見ることが私の楽しみ。
最近はやっと、何気なく目が合っても笑顔を向けてくれるようになったから。この進歩が、とても嬉しい。
「色んな本を、読みたいから」
「そうなの」
そう。
それは何気なく。私の意識がその行動を形作る前の、動き。当たり前のこととして。
私は、腕を上げて。
怯えた瞳を見た。
こちらを見上げる紅。
娘は何を見ている?
母親。
その母親は何をしている?
娘に向かい、腕を上げている。
何故、そんな瞳で見ているの?
それは。
「フェイト」
腕を下ろし、短く息をつき、名前を呼ぶ。娘を呼ぶ。
それと同時に自分を叱責する。
どうして気付いていたのに、その理由が解らなかったのか。
少し考えれば、わかること。わからざる得ないこと。
娘が。フェイトが。
フェイトが何に脅えたかなんて、答えは、ひとつしかなくて。
戸惑う瞳が、見詰めている。
「フェイト」
自分への怒りを抑えつけて、出来る限りの柔らかい声を。出来る限りの温かい表情を。
しゃがんで、視線を合わせる。ソファに座るフェイトに、微笑む。
戸惑いが薄れ、不安が濃くなる紅。済まなそうに下がる眉。
きっとこの子は、自分がどんな表情をしていたのか自覚したのだろう。そしてそれを見た私が気を使っていると思っているのだろう。たぶん、この子はすぐに謝る。謝らなければならないのは私だというのに。
ごめんなさい。そう、小さな喉が震える前に口を開く。
「ねぇ、フェイト」
行き場を失った言葉を飲み込む姿を見て、ゆっくりと、怖がらせないように、フェイトの前に手を差し出す。
「私の手、触れるかしら」
丸くなった紅。数秒見詰め、私の顔と差し出された手を行き来する視線。
私は何も言わない。ただ、待つ。フェイトの行動を待つ。今は触れなくてもいい。それでも構わない。そう思いながら。
けれど、フェイトは手を差し伸べてくれた。
本と辞書を傍らに置き、ゆっくりと、躊躇いながら、指先に触れる、小さな指先。微かな感触。微かな温度。
それでも、とても大きな、一歩。
指先が、掌に触れる。
「どう?」
「・・・・、あったかい、です」
いつでも触れることを許された体温。
そう、ありたいと願っている。そう、なりたいと思っている。
「他には?」
「私の手より、大きい、です」
いつでも包みこんであげられるぬくもり。
そう、ありたいと願っている。そう、なりたいと思っている。
「そうね」
そうでなけらばいけないと、誓っている。
指先から、掌。遠慮がちに重ねられた、小さな手。
小さな、小さな、娘の手。
「フェイト」
「はい」
「私の手は、何をするためにあると思う?」
「え?」
その小さな手が重ねられた、大きな手は、何のために。
脅えが見える、浮かび上がる紅。今すぐ抱きしめたい気持ちを抑えて、じっと待つ。
私の手の、役割。その答え。
「お料理とか、掃除、とか」
「ええ、家事もするわね」
「お仕事、とか」
「仕事も大切ね」
「身支度も」
「自分のこともしなきゃね」
ぽつりぽつりと零れる答え。
詰まりながらも答えるフェイトに、その答えに頷いて。
求めた答えが出てくれる時を待つ。
「それから」
暗く陰る紅を認めて、それを遮る答えを。
大切な、答えを。
伝えたい、言葉を。
「それから、フェイト」
重ねた手とは逆の手を、伸ばして、フェイトの頭の方へ。
反射的に瞑られる紅。拳を形作る手。強張る身体。
フェイトが私の行動で思い浮かべるのは、その反応が全てを物語っているけれど。
違うの。そうではないの。
フェイト、私があなたの方へ、腕を上げるのは。
「あなたの頭を撫でるため」
私の手から伝わるのは、柔らかい、金色の髪の、感触。
優しく、滑るように、撫でる。
開かれた紅には、驚き。
「いいこ、いいこ。えらい、えらい。こうやって、撫でるためにあるの」
フェイトはいいこよ。えらいこ。
撫でる手を止めずに、微笑みを深くすれば、紅から流れる雫。
「・・・・・・ぁ、ち、違う、ん、です、っ、私、かなし、い、んじゃ、・・・」
「フェイト」
両手の服の袖を引っ張って、慌てて零れるそれを拭うフェイトに、手を伸ばす。
身を竦ませたフェイト。
違うの。そうではないの。
フェイト、私があなたの方へ、手を差し伸べるのは。
「あなたの涙を拭うためでもあるわ」
頬を伝う水滴を受け止めて、目尻に触れる。
溢れ出るそれを、私にも分けて頂戴。
収めきれない感情を、私に教えて頂戴。
「そしてね」
ねぇ、フェイト。
私が。母親が。
あなたに。娘に。
手を伸ばすのは。腕を伸ばすのは。
「フェイトを抱きしめるために、ある」
とても、とてもとても愛しい我が子を、腕の中に。
「こうやって、フェイトを包み込んで」
小さな小さな身体を。今にも壊れそうな華奢な身体を。
ぎゅっと、抱きしめる。
「守るためにあるの」
誰であろうと、この子を傷つけさせない。
誰であろうと、この子の幸せを邪魔させない。
そう、誓っているのだから。
「フェイトに、大好きよって、伝えるために触れるの」
肩口で、僅かに頷く感触。
まだ背中には回されることはないけれど、服を掴んでくれた小さな手。
ねぇ、フェイト。
知っていて。
覚えていて。
信じていて。
「母さんの手は、そのためのあるのよ」
笑顔で、受け入れていいの。
――――――
「フェイト、そろそろ時間じゃない?」
「あっ」
「遅れるぞ」
時計を見て、慌てて玄関に急ぐフェイトの後を苦笑して追う。
呆れた様子のクロノも、ついでとばかりに玄関へ。
靴を履いて、鞄を手にしたフェイトに声をかけて。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
手を、伸ばして。
「はいっ、いってきます」
はにかみを浮かべる、その頭を撫でて見送る。
小さな背が扉に消えて、片づけに戻ろうとするとクロノがどこかつまらなそうな顔をしているのに気づいた。
「あら、どうしたの?」
「・・・・・・・・・・、母さん、フェイトに何か言った?」
「何故?」
「・・・・手を・・・」
「え?」
「・・・・いや、何でもない」
言葉を濁したクロノが、ごまかす様に先に足を進める。
ぽかんと、その後ろ姿をしばらく見つめて、心の奥から笑顔がこぼれる。
息子の、フェイトのお兄ちゃんの背中を追う。
「クロノだと、大人って言うより子供だし、格好つくのにすこぉーし身長足りないものねぇ」
「ち、違う!そんなんじゃない!!」
「あら、私は何も言ってないわよ?」
「・・・・・・ッ!!ッ!!」
「うふふ」
願わくば。
フェイトに差し出される手が、全て笑顔を引き出してくれるよう。