アフター7
まさかこんな事態に追い込まれるとは思っていませんでした。
蒼い目の親友が真顔で言ってきて、第97管理外世界の某所に住むツッコミの鬼は無言で通信を切りました。
シンクの縁に手をかけて俯いていたその肩に、金色の髪が流れます。
蛇口から細く流れ出た水が排水溝へと流れていくのを、ぼんやりとした紅い目が見詰めていました。
細く長い息を吐き出して、水を止め、リビングへと戻ってきたその人を、オッドアイが気遣います。
「フェイトママ……」
「……ん、だいじょうぶ」
薄く微笑んだフェイトさんはのろのろとソファへと腰を下ろし、そのまま横になります。
リンディさんが持ってきてくれた実家で使っていた黒いクッションを抱きしめるように顔を半ば埋め、そのまま動きを止めます。
どう見ても大丈夫じゃなさそうでした。
床に座り込んでその姿を見守っていたヴィヴィオちゃんでしたが、十分もしないうちにまたシンクへと向かう苦しげなフェイトさんに眉を下げる他ありませんでした。
「アイナさん、私、フェイトママにしてあげられることないかな?」
昼食を作りに来てくれたアイナさんに、ヴィヴィオちゃんは相談を持ちかけました。
フェイトさんのつわりが酷くなって一週間ほど。その姿は見ていても辛いものです。本人はもっともっと辛いのでしょうが。
料理の匂いは大敵、ということで今は寝室にいるフェイトさん。今日は特にひどいらしく、食べ物がほとんど喉を通っていません。それでも何かを食べようと口にしても吐き戻してしまっていました。
そんなフェイトさんのためにヨーグルトと数種のフルーツを用意していたアイナさんは、優しく微笑みます。
「傍にいることや、そうやって気遣ってあげることが一番ね」
「でも……」
「大丈夫。つわりが終わらないなんてことはないわ」
「……うん」
何もできないことが歯がゆいのでしょう。ヴィヴィオちゃんは俯きます。
それを見ていたアイナさんはしばらく考え、ふと呟きます。
「あ、あったわ。ひとつだけヴィヴィオにしか出来ないこと」
がばっと上がった顔と、煌めくオッドアイ。
それに対して、アイナさんはにこりと笑いました。
「もう一人の悩んでる人が暴走しないように見張っててね」
「あれはもう悩んでるとかいう次元を超えてると思う」
ヴィヴィオちゃんは真顔でした。
夕刻の少し前。
「ただいまッ!!」
高町家の玄関をぶち破らん勢いで帰宅したのは当家の頂点。
本日の仕事を恐ろしいほどの効率の良さと素早さで遂行し、有無を言わせない素敵な笑顔で早退を決めてきたのです。
その足取りは揺ぎ無く、一直線にある場所へ。
「フェイt「はいストーップ!!」わぁ!」
行こうとして、通せんぼを喰らいました。
急に現れた遮蔽物、ヴィヴィオちゃんを目を丸くしながら見れば。
「フェイトママ、やっと今寝たの。起こしたら怒るよ」
「ぅう……」
どうやらフェイトさんの寝室からやってきたのでしょう。ヴィヴィオちゃんは口の前に人差し指を立てます。
そう言われてしまえばもうどうしようもありません。従うしかないのです。
がっくりとおとされた肩に溜息を漏らして、ヴィヴィオちゃんはその人に笑顔を向けます。
「おかえりなさい、なのはママ」
「ただいま、ヴィヴィオ」
なのはさんの帰宅です。
廊下ではなく、リビングへとやってきた二人。
ヴィヴィオちゃんが指差したのはなのはさんが持つビニール袋や紙袋。
「で。その手のものは何?」
なのはさんはよくぞ聞いてくれましたとばかりにテーブルへと袋の中身を並べていきます。
豆腐。梅干し。プリン。杏仁豆腐。
ヴィヴィオちゃんの視線は、並べられていくものを追っていきます。
「色んな人に聞いてきて、つわり中でも食べられそうなの取り寄せたの」
「へー……」
野菜スープ。アイス。ぶどう。グレープフルーツ。桃。いちご。そうめん。うどん。そば。りんご。エトセトラ。
まだまだ並びます。ヴィヴィオちゃんは目で追います。なのはさんはご機嫌です。
二十品目でついにヴィヴィオちゃんは机をばしんと叩きました。
「こんなに要らないよね!?」
「だってどれがいいかわからなかったんだもん!!」
叫びに似た問いに返ってきたのは同じく叫びに似た回答でした。
ちなみにこのお家は基本的に防音設備が整っているので寝室に届くことはありません。
だからこそ、二人は声を荒げたまま、更なる応酬へ。
「この前買ってきたのも冷蔵庫にあるんだよ!?」
「いつ食べたがるかわかんないでしょ!?」
どうやら初犯ではなかったようです。
余り余ったそれらがアイナさんとヴィヴィオちゃんの手により何とか無駄にならないように使われているのは明らかでした。
ぎゃいぎゃいと口論の様なものを繰り広げている二人。こんなところまでよく似ていました。
「もー!! どうしてフェイトママのことになるとそう見境ないの!!」
「フェイトママのことだから」
「真顔で言わないで!! 何かわかんないけどこっちが照れる!!」
キリッと照れもなく言い切ったなのはさんにどうしたらいいかわからなくヴィヴィオちゃんです。
えー、と何故か不満気ななのはさんに対して、深いため息。
「もしフェイトママが困るようなことしたら……」
なのはさんを真っ直ぐ見詰めて。
「ママたちのママにチクって怒ってもらうからね」
「えっ」
オッドアイはマジでした。
そうっと入った寝室は、静寂。
一度だけベッドサイドの金色が煌めいたのを見て、なのはさんは頷き、なるべく静かに着替えを済ませます。
起こしてはいけないと思いつつも、寝顔だけでもひと目見たいと近づいたベッドには、最愛の人。
縁に腰掛けて、寝苦しさからか肌に張り付いた髪を指先でよけていると、震える瞼。
「……なの、は?」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん……」
薄く水気を帯びた紅を受け止めて、なのはさんは微笑みます。
フェイトさんもまた、いつもより弱弱しいものでしたが、頬を緩めました。
「おかえり、なのは」
「ただいま、フェイトちゃん」
額に掌を当てて、熱がないことを確認しながらなのはさんは問います。
「何か食べたくなったら、言ってね」
「……ん」
少し浅い呼吸。緩慢に頷いたその姿を見て、なのはさんは眉を下げます。
そんななのはさんに、だいじょうぶだよ、とフェイトさんは続けました。
触れるのは、自身のお腹。
「二人のためだから、がんばる」
「うん」
そんなフェイトさんの額に唇を落としたなのはさん。
「なのは」
ゆっくりと離れれば、触れた手と手。
紅が緩みます。
「眠るまで、手、握ってて、くれないかな」
指先だけ絡んでいたそれを。
「もちろん」
「ありがとう」
なのはさんはしっかりと繋ぎました。
紅が、しっかりと瞼に隠れるまで。
「フェイトちゃんが辛いってことは重々承知してるんだよああ本当に変わってあげたいけど変わってあげられないし誠心誠意フォローはしてるとは思ってるけどでもね」
「うん、そんで?」
机の上に作った拳、詰められた眉、苦渋の声が発したのは。
「フェイトちゃんが色っぽ過ぎて色々と辛いです」
「シスコンにエターナルコフィン喰らってこい」
時空管理局本局に居た某捜査司令は緊急プライベート回線でそんなことを真顔で言ってきた親友の通信を容赦なく切りました。