遺言
タイトル通りのお話です
苦手な方は、気を付けてください
執務室で見つけたのですが、高町教導官宛てのものではないのですか。
そう言って渡された、管理外世界の記憶媒体。
一枚のディスク。
ポータブルプレイヤー。
とても大切な思い出を見返すために、こちらの世界にも持ってきていたもの。
ミッドの電力供給でも使用できるように改良してもらったそれを前に、私はそれに視線を落としていた。
高町なのは様。
直書きされた宛名。
見間違えるはずもない、彼女の筆跡だった。
ケースに入ったままのそれを翳す。ライトに照らされ、虹色に輝く記憶面。ここには、何が記されているのだろう。
躊躇いがなかったかと言えば、それは嘘だ。
これを直接手渡されたわけでもない。送ったといわれたわけでもない。彼女から私へ。そう、もらったものではない。
だけれど、宛名は、私。
プラスチックの軽い音を立てて、ケースを開いた。
ドライブにディスクを入れて、読みこみ。
チャプターは、ひとつだけ。
タイトルも、ない。
再生を、押した。
真新しい、執務官服のアップ。
液晶を確認していたのか、彼女が離れて、カメラを覗く様に身を屈めた。
紅色。懐かしい。一番新しい記憶に残る彼女より、いくつも若い。というより、少し幼さもある。
中等部を、卒業したくらいだろうか。
バルディッシュ。撮れてるかな。
短い機械音声が、問題ありません、と告げる。彼女は笑った。
デバイスに聞くということは、彼女はひとりなのだろう。
録画画面に映るのはどこかの仮眠室なのだろうか。簡易ベッドと、黒い一人掛けのソファだけ。
彼女は、カメラの対面のソファに座った。
何か、照れるね。変じゃないかな。
機械音声が同じ言葉を告げる。彼女は、そうかな、と眉を下げた。
ああ。懐かしい。この頃の彼女は。昔から、ずっと、いつも。彼女はこうやって困ったように笑うのだ。
小さなあの頃も。幼さが残るこの頃も。大人びたあの頃も。落ち着いたその頃も。
いつも、同じように笑っていた。口端が、緩む。
彼女は、瞼を下ろし、一つ息を吐いて、視線を上げた。
なのは。こんにちは。
彼女は、私に話しかけてくる。
ただ、聞くことしか出来ない私に向かって、目を合わせることも出来ない私に向かって。
もしかしたら、久し振り、かもしれないね。もう、何年も経ってるのかもしれない。
これを撮った彼女からすれば、もう何年も経っている。
私は、食い入るように映る彼女を見ている。
たぶん。これをなのはが見ているってことは、私は、きっと、そこには居ない。
彼女は目を伏せて、そう言った。
私はここで、やっとわかった。彼女が何をするためにこれを撮ったのか、内容はわからなくても、理由はわかった。
事故か、仕事か、病気か、わからないけれど。もう、きみの傍にはいることはない。
私の隣に、彼女自身がいないことを知っている言葉だった。
彼女がいない、世界の話。
どんな最期だったのかな。皆の、迷惑にならない最期がいいな。
こんな時まで、そんな事まで、彼女らしい。
彼女らしくて、悲しくて、怒りたかった。
膝の上で、爪が掌に食い込んで、痛い。
リンディ母さんや、クロノにも、手紙は遺してるんだ。でも、ごめんねって伝えてくれるかな。それと、ありがとう、って。
ハラオウン家の子供の顔で、そう言う。
目元を朱に染めて、笑う。
リンディ母さんの娘で、クロノの妹で、私は最高に幸せでした。って。
母親と兄に向けての、娘で、妹の、笑顔。
そして、また、あの笑顔。
こんなこと頼んでごめんね。
首を横に振る。
私でいいのなら、いくらでも。彼女を愛した家族に、伝えることにしよう。
彼女の視線が、ずれる。
バルディッシュは、完全凍結を望んでるんだ。本人の意思を尊重しようと思ってる。
純粋に、困った顔。
機械音声は響かない。
戦斧は、雷神の手でしか扱えない。戦斧は、主を一人しか認めない。
彼女は、それをわかっているんだろう。
視線が、戻る。
さらに下がる、眉。
アルフは、私が連れて逝ってしまうから。同じ場所に辿り着けるかわからないけれど、一緒なら、こっちで、怒られることにするよ。
供給元の魔力が断たれ、蓄えていた魔力もなくなれば。
それが使い魔の、契約完了以外の、姿を消す方法。
その身体を捨てて尚、橙色の狼は、ずっと、主の傍に居続けるだろう。
彼女が望み、狼が望んだ、たった一つのことなのだから。
アリシアや、母さんや、リニスにも、会えたらいいなって、思ってる。
今度は、ちゃんと、私として。
最初の家族に、最初から彼女として。
描いた光景は、どんなものなのだろう。
はやてや、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。ユーノ。アリサに、すずか。皆にも、手紙は、書いたんだ。
彼女の声と共に、脳裏に浮かぶ人たち。
彼女が深くかかわってきた、人たち。
そして。
でも、きみには、なのはには、手紙じゃなくて、声で、伝えたかった。
こっちの映像データではなく、幼い頃を過ごした管理外世界のディスク。
彼女が何故こちらを選んだのか、何となくわかってしまった。
説明は、上手く出来ないけれど。
彼女は、笑う。
きみの、なのはの隣にいる間は、絶対言えないだろうから。私は、言わないだろうから。
しゃんと伸びた背筋。
膝の上で握りしめられた手。
真っ直ぐで、真剣な、紅。
私に向けられた、声で、彼女は言う。
高町なのはさん。
私は、貴女のことが、好きです。
友情ではなく、ひとりの人として、好きです。
一つ一つの言葉に、力が、想いが籠もっているというのは、こういうことを言うのだろう。
私は、ただその言葉を、呆然と聞いているしかなかった。
目に映る彼女と、同じ姿の、記憶の中の彼女。
この頃の、彼女から、同じ言葉を聞いたことは、ない。
巡る記憶に重ねても、そんな素振りは何もない。
どうしてか、目の奥が、熱くて、痛い。
画面の中で、張り詰めていた糸が切れた気がした。
肩の力を抜いて、ふっと、息を吐いた彼女。
眉を下げて、頬を淡く緩めて、こっちが心配しちゃうくらいに、困ったような顔。
こんな、今、この状態で、伝えることを許してください。
面と向かって言えなかった、情けない私を笑ってください。
紅が、隠れる。
弧を描いた金色の睫。笑って。と、笑う。
瞼が上がる。
愛おしそうな瞳というものを、見た。
そして、今だけでも、少しでもいいので。私が、なのはを好きだということを。信じてください。
口元を手で覆う。
何度も、何度も、頷く。
信じないわけがない。彼女の言葉を疑うわけがない。
滲んで歪んだ視界を、彼女を映したくて、瞬きを繰り返す。
その度に、雫が零れて、頬を、手を濡らして、膝に落ちた。
画面に映る彼女が、この事を口にするために、どれほど心を賭したのだろう。そう考えると、辛かった。
彼女は、少しだけ、首を傾けて。
幼い子に言い聞かせるみたいに、言う。
それから、忘れてください。
全部、全部、忘れてください。
いやだ。そんなこと出来ない。
それこそ、幼い子みたいに首を振る。髪が揺れる。雫が舞う。
彼女は重ねる。
きみは優しいから、こんな私のことを気にするでしょう。
重みになるなら、忘れてほしい。
なのは。忘れて。私がいたことを、私がきみを好きだと言ったことを。
変わらない。穏やかで、優しい声が聞こえる。響く。
忘れたくない。ずっと覚えてる。どうやったって、消えない所にずっと刻みつけておく。
彼女が忘れてと言っても、関係ない。
私は、画面に映る彼女の想いを、忘れたくはない。
この時の彼女の想いを、失いたくはない。
ごめんね。
笑う。
彼女が、いつものように、微笑む。
きみは、私の、はじまりだよ。
他の誰でもだめだった。きっと、きみだから、私は救われた。
初めて見た瞳に惹かれた。
この子と話をしたいと思った。
ぶつかって、倒れて、それでも諦めずに、向かっていった。
手にしたのは、私とそんなに変わらない大きさの、手。
守ってくれたのは、私とそんなに変わらない背中。
ずっと繋いでくれていた、ぬくもり。
きみに。
なのはに逢えて。良かった。
彼女が笑う。
綺麗に、綺麗に、その目元を緩めて。
なのは。
私の名前を、呼んでくれる。
私だけに、笑ってくれる。
ありがとう。
その笑顔を最後に、画面は黒く染まった。
喉の奥で押し殺していた嗚咽が、今になって崩れ落ちた。
このディスクの存在意義を、知る。
こんなことを言うためだけに作られたものだと、知る。
こんなことのために、彼女が私に宛てたものだと、知る。
ふざけるなと言いたかった。馬鹿とぶつけたかった。
こんなものだけで、私が、彼女を忘れることが出来るのかと、叩きつけてやりたかった。
真っ暗な画面を睨みつける。
ああ、酷い顔。どうしてくれるんだ。
画面に映る私の顔が、波打つ。走る、ノイズ。
俯いた。彼女。
バルディッシュ。
見る。
彼女はたぶん、気付いてない。
この映像のことを、知らない。撮られていることを知らない。
私は、卑怯だね。
こんな風に伝えたら、なのはが忘れられるわけないじゃないか。
そうでなければ、こんなこと、言うわけがない。
彼女のデバイス。答えに行き着く。
髪が邪魔で、顔が見えない。
でも、それを、望んでたんだ。
どんな形でもいい。
どんなに歪んだものでもいい。
見詰めていた掌を、固く握りしめて。
彼女は言う。
なのはの記憶に、一部に、強く留まりたかった。遺したかった。
それだけで、どこにあるかもわからない、私の魂は、救われる。
そんな風に、想ってしまうんだ。
彼女が欠片しか見せることのない、深い深い心の奥。
それを垣間見る。
もう、私の頬を流れる涙は止まっていた。
彼女が顔を上げる。
見たことのない、悲しそうで、嬉しそうで、辛そうな、笑顔。
私が居なくなっても。
なのはが、幸せなら、いいな。
その頬を、雫がひとつ、滑っていった。
再び真っ暗になった画面を見ていた。
残っていた水を集めて、目から雫が一つ零れる。
ドライバが跳ねて、ディスクを取れと言ってくる。
のろのろと、ケースに戻したそれを、宛名を、私の名前を、見慣れた筆跡を見る。
扉が開く音が、した。
「なのは、なのはが私が使ってた執務室に在ったディスクを渡されたって……」
焦る声に、振り返る。
そこには、映像の頃からずっと成長した、大人びて、落ち着いた雰囲気を纏う、彼女。
紅が、丸くなる。
私の手にしたディスクと、ポータブルプレイヤーを、何より私の顔を見て全てわかったのだろう。
ディスクを机に置いた私は、何も言わないまま、彼女の前に。
下がる、眉。困った彼女。
私を窺いながら、彼女は言う。
「撮り直そうと、思って、管理部署から取り寄せたんだ。手違いで、もう退去した後の執務室に持って行かれたみたいで」
そんなの聞きたくない。
そんなの、聞いてない。
「もうこんなの作らないで」
それだけ言って、その腕の中に、その胸に、抱き付いた。
目を強く瞑って、何も零れないように、どれも忘れないように。
強く強く。
忘れないように。
「ごめんね」
背中に腕が回って、緩く囲われる。
耳元での声は、やはり、その言葉だった。
「馬鹿」
「うん」
私の髪に頬を寄せている彼女は、きっと、また、同じようなものを作るだろう。
作らないで。その言葉に返ってきたのは、ごめん、それだけだった。
彼女の腕の力が、少し、強くなった。
彼女が、言う。
「好きだよ、なのは」
「知ってるよ」
つい先日、やっと、直接、聞きだしたんだから。
「絶対、忘れてあげないから」
言い切って。
彼女の吐息を聞いた。