してはいけない恋をした
※先生と、生徒
中途半端
暗い
マグカップの中で生温くなった黒くて苦いだけの液体を見詰めて数秒。
ポットの横にあるミルクと砂糖を見詰めて数分。
意を決してコーヒーと言う名の異物を煽ろうと取っ手を引っ掴んで。
「失礼します」
一陣の清涼剤と名高い声に、気勢を削がれた。それはもう、ごりごりっと。
マグの取っ手を力強く握りしめたまま、顔だけそっちに向ける。
城主たる国語科教師がいっぱいいるけど、我が城たる国語科準備室にやって来たのは、学園の有名人。
「八神先生。宿題のプリント、集めてきました」
攻城の鍵はプリントの束。ああこりゃあ誰も止められない。
あっ、いいのに、私持っていくよ。ううん、私が。いっそ一緒に行こうか。そうしようか。ねえ。
そんな下心に塗れた言葉たちを、ドライアイスみたいな笑顔で遠ざけたんだろうに。触れたら火傷なくせして、限りなく冷たいそれ。笑顔の種類が解ってなきゃ、ただ触れただけじゃ、冷たいなんて解らない、それ。
学園一、二を争う美人。それが、私が受け持つクラスの副委員長。ちなみにもう一人の美人は委員長だ。副委員長の方が目立ってるけど。
「あー、あんがとなー、はらおーんさん」
ははは。ははははは。
笑って、笑顔で、笑みを浮かべて、わたしはそれに応えた。
いえ。ついででしたし。そう言って淡く笑う姿は完璧だ。色々と。才色兼備を地でいくお嬢さんだ。ああ、他のセンセの視線もあたたかい。
ていうか。
ついで。ついでって何のついでだ。巻くためか、色々と巻くためか。
思った事をかくして、厚塗りファンデーションみたく仮面を掛けて、わたしは笑う。
「どうぞ」
手にしたそれを、はらおーんさんは、私に差し出す。
デスクの上に置こうとはせずに、その紙の束を、差し出してきた。
ははは。ははははは。こやつめ。
引きつる口端を一生懸命、それこそ授業中に襲ってきた腹痛をなだめるように、慎重かつ丁寧に抑える。
ああ、やっぱりポットんとこ行けば良かった。そうすれば、デスクに置いといてー、とナチュラルかつ自然に当たり障りなく言えたのに。
あくまでさり気なく、あたしは手を伸ばす。
差し出された紙の束を、受け取って。
「……それでは、失礼します」
にこりと。腹が立って仕様がない笑顔。完璧なアルカイックスマイルをセンセたちにも静かに振り撒いたはらおーんさんは、退室した。
わたしはというと満身創痍だった。
筋肉が稼働する音が聞こえるみたいな動きで、貨物船からクレーン車で下ろされるコンテナの如く、机にプリントを置く。出席番号一番の名前と、わたしがそれなりに考えた問題文の隣でその子の筆跡が這いまわるそれに、静かに、静かに、ばれないように視線を強く落とす。
攻城の鍵は、武器を隠すためのものでもあったのだ。
指先に触れた熱を忘れる時間は、それなりに要した。
才色兼備。性格温厚。誰にでも優しい優等生。
それ、誰のことや。
見上げたそれなりのマンション。
階数と、部屋の順番を数えて、行き着いた一つ。
そこに灯る明かりを見て、疲れが増す。
セキュリティを解除し、エントランスを抜け、エレベーターに乗り込み、階数を押し、停止の妙な浮遊感におえっぷとなり、ずるずると扉の前に辿り着く。803号室。やがみ、とむりくり呼んでいる。
鍵を開けて、ちゃんと、がちゃりと鍵が開く音を聞いて、扉を開いて、見知ったパンプスが、ひとつ。
一応鍵を掛けて、ヒールを脱いで、揃えて置いて、明かりがついたリビングに突入。
「あ、おかえり」
金色の死神がそこにいた。
もう。もう、なんていうか。なんというか死神だ。
鎌持たせよう。きっと似合う。大体骸骨で描かれてるけど、神って割と美形多いらしいし、ていうかきっと容姿なんて自由自在だろうし。
勝手に上がり込んだ他人の家で、勝手にコーヒーを淹れ、ブラックで嗜み、ソファで何かめんどくっさそうな数学の本なんぞ読んでいる。
身なりはシンプルイズベスト。ていうか美形は基本的に何でも似合う。適当な服でも輝く。神様は不公平だ。こやつは死神だった。うん、不公平だ。
「何? 変な顔して」
「……」
「苦手なコーヒーを無理して飲むから気持ち悪くなったの?」
首を傾げてこっちを薄く笑って見てくるその顔は、確実にお昼休みにわたしんとこにプリントを届けに来たやつと一致する。
けど、一個も、ああ、美形ってとこ一個しか、一致しない。
いつからだろうか。
この子が、私の部屋に転がり込むようになったのは。
「あんな、はらおーんさん」
「……」
「はらおーんさん、聞いとる?」
「……」
「はらおーんさん?」
ああ、難しげなハードカバーの本に視線を落として、コーヒーを静かに飲む姿のなんて似合うこと。
あれだ。あの、高級マンションのCMに出てきそう。あと、あの、くつろぎの空間へ、みたいなホテル的なあれ。
で。無視か。
鞄をソファの上に端に置いて、俯いた。皮張りのそれに視線を食いこませる。反対側の端に座る人。その人の、名前。
「フェイトちゃん」
「何?」
ちょうむかつく。
良い返事、ちょうむかつく。
何個も年下のこやつが、腹立つ。
気体って固形物になれるんだレベルの溜息をソファにぶちまけて、わたしは視線を向けた。
わあ、良い笑顔。うん、美少女やなぁ。そんでな。フェイトちゃん。
「帰れ」
「やだ」
即答か。
真顔になんなや。こっちかて真顔や。
本を閉じて、マグカップと一緒にテーブルに置いたフェイトちゃんは、至極真剣に口を開いた。
「未成年をこんな夜に一人で外に放り出すって、教師としてどうなんですか」
「高校生なんてこんな時間うろうろしとるわ。現実なんてそんなもんや。第一、最初に見っけた時、丑三つ時やなかったか」
「こんなにか弱い生徒を」
「っは、護身術習っとるくせに」
「すずかにすら勝てない護身術ですけど」
「比較対象あかんやろ」
真顔のまま見詰めあった。
くっそう、無駄に整った顔しおって。照れる。無駄に照れる。が、慣れとは怖いもので、割と我慢できるまでになっている自分が嫌だ。
紅。が、色付く。
「はやて」
名前を呼ばれた。
何個も年下の彼女に、呼び捨て。もう、慣れてしまった。
「はやて」
二度目。
もう、限界が近いな、と思う。
腰を上げて近づいてきた彼女に言う。
「フェイトちゃん、帰り」
「いやだ」
制止のための言葉は、一歩と共に踏みぬかれた。
随分とある目線の高低差。見上げた紅に、笑う。
「おかーさんたち心配しとる」
「一人暮らしだって知ってるくせに」
「ご近所さん心配するで」
「ワンフロア貸し切りだから、近所なんて階を隔ててるし」
「うっわ、学生の身分のくせして」
しかめた顔。これだからお嬢は。
あと、一歩の距離を置いて、彼女は言う。
蛍光灯の白々しい光が、薄墨の影を作って、紅が、陰る。
艶めかしいって、思うくらいに、色香を持った唇が、動く。
「ねぇ、泊めてよ」
どうしたって解らざるを得ない。熱した鉄球を水に入れるみたいな、そんな解りやすさ。
「はやて」
声が、熱い。
わたしは、氷を想像する。誰にも解かせることのない。大きくて。冷たくて。体積を増す、氷塊。
「フェイトちゃん」
わたしは、笑う。
笑いかける。問いかける。
「わたしは、何?」
「はやて」
頭脳明晰が聞いて呆れる。
正答を、教えてあげよう。
「ちゃう、フェイトちゃんの先生や」
混じり気のない答え。花丸をあげよう。
「ほいで、フェイトちゃんは、わたしの生徒」
ついでに、類似問題の正答も、提示しておく。
紅。色を落とす。氷で、削げ落とす。
「同性だから、一人暮らしだから、そんな言い訳は割と通用せん」
先生が、説明してあげよう。
「ちらっとでも話題になれば、裁かれるのは、非難されるんは、大体、大人や」
わかりやすく、呑み込みやすく。
「わかる?」
誰でもわかる、簡単な答え。
彼女の存在がばれれば、わたしは、わたしという社会的な生き物は、死ぬ。
死神を見る。ドライアイスみたいな、無表情。
冷たいように見える癖に、触れると火傷してしまう。
だから、わたしは。
「帰り」
触れることなく、そう言った。
平熱まで戻った声が、問いかけてくる。
「それは、生徒に対して、言ってるの?」
「ちゃうよ、先生として、言っとるの」
笑う。
ね。だから。
いいこだから。
「先生の言うこと聞きや、はらおーんさん」
先生を、困らせないで。