掌比べ
ゆっくりとした旋律が流れていた。
細い細い弦から爪弾かれる音は連なり、重なり、ゆっくりと。
アコースティックギター。
先生に頼まれて資料を運んだ音楽準備室。そこの隅にぽつんと置かれたそれに気付いたのはあたしが先。
遅れて気付いた彼女がそれを見て先生に言った。触ってみてもいいですか。
手伝いのお礼に音楽室で試してみていいわ。そう言われて渡されたギターとコード表。そして簡単な楽譜。
実際に触ったことなかったから。呟いて確かめるようにフィンガーボードに指を置いて、コード表と見比べている。
あたしは彼女が座っている対面の椅子に座り、ふぅん、そんな相槌。
「アリサやすずかの家で、ピアノやヴァイオリンはちょっとだけ弾かせてもらったけど、ギターはまだ弾いたことないなって」
「音楽好きやもんな」
「うん」
ぽろん。ぽろん。
断続的に響く一音。
「もしかして、ピアノとか、弾けるん?」
「うん、少しなら」
「・・・、ヴァイオリンも?」
「少しなら」
「その少しってのが当てにならんのや」
「どうして?」
首を傾げるこの人は知らない。
何でも器用に成し遂げてしまう自分の、少し、それがあたしらの認識では、一通り、そんな風に変わってしまうことを。
謙遜は美徳である。だけれど過ぎた過小評価は嫌味にもなる。
それが素だけに、何を言っても無駄だとわかっているけれど。
「あー、もうええわ」
「えっと、ごめんね?」
「すぐに謝るん、直し」
「うん、ごめ・・・ぁ」
困ったように微笑んだ彼女は何を言っていいのかわからないのだろう、ただこちらを見ている。
しゃあないな。まったく。そう言ってやれば安心したかのように再び弾かれる弦。
それが音から曲に変わるまでにさほど時間は必要なかった。
流れているのは聞き慣れたメロディー。誰でも知っているような有名な曲。
でもより優しく聞こえるのは、彼女が弾いているからか、あたしが聞いているからか。
「ん。終わり」
曲は終わり。
時間が元の流れに戻ったかのような錯覚さえ覚えるゆっくりとした時間は終わってしまった。
時計を見れば、存外、進んでいる。
「ありがとう、聞いててくれて」
「なんも。暇やったし」
嘘だけど。
一緒に帰りたかったから。一緒に居たかったから。一緒に楽しみたかったから。
貴女を一人占めしたかったから。
「はやても、弾く?」
「へ?」
「はい」
ふいに渡されたギター。
少し視線を上げれば微笑んだ彼女。
受け取ってさきほどの彼女を思い出して構えてみる。
大きい。明らかに、あたしの身体には大きい楽器。
「で、コードひょーは?」
「教えてあげる」
差し出されるはずの白と黒に刷られた紙は向こうの机の上に置いてけぼり。
一瞬の思考の遅れがあたしの敗因。
ふわ。なんて効果音が付きそうな、そんな感じ。
後ろから香る匂いに目眩がした。
「人差し指を」
耳元で聞こえる声に頭痛がした。
「このフラットの弦に」
左手に微かに触れる感触に火傷しそうだ。
「だぁ!子供扱いすんな!言えばわかるわ!」
「あ、ご、ごめん」
「ったく・・・」
がぁっと吠える。
全てを振り払うように、背中を覆うように立っていた人とか、身体の硬直とか、雑念とか、顔の熱さとか、心臓の大暴走、だとか。
吹き飛ばして。残ったものは差し込む夕日のせいにして。
対面に戻った彼女が指差す場所にあたしの指を移動する。
「人差し指を、ここ、やろ?」
「うん、それで、中指を」
「この、ここ、で」
「薬指が」
「こ、・・・・・・出来るか!!」
思わずまた吠えた。
ぷるぷるした自分の指を見ているのが何だか居た堪れなかった。先ほど見た白い指は流れるように、綺麗に、その音を奏でる場所に居たのに。
ぱちくり。瞬きをして驚いている彼女。
「あー、やめやめ。おしまい」
「はやて?」
「出来ひん」
戻しておいてね。そう言われた場所にギターを据え置き、コード表と楽譜をその隣の棚へ。
解っていた。ああ解っていたとも。
持った時からあれはあたしには大きいと。解っていたとも。
「どうしたの?」
「解らんか」
少し睨むと困ったような顔。
彼女は解っていない。その顔をすると誰もが許してしまうことを。
もちろん、あたしも、残念ながら。
「指がつりそうなんや」
「つる?」
まだ言わすか。
半ば、自棄になって口にする。
「あたしの手ぇちっちゃいからコード押さえられへんねん!」
ぱちくり。
再び瞬きをした彼女。
「そら、そっちは白魚のよーな白くて長くて綺麗な手ぇしてるけどな!コードなんて難なく押さえられる指してるけど!あたしは出来ひんゆーとるんや!!」
ムキになった。
一気にぶちまけた。
少しだけ、静かになる。押し寄せる羞恥心。いや、あたしは悪くない。全部あっちが悪いんだ。
うん、そうだ、だから意地になって睨むように見る。
ぱちくり。瞬き。
「私は」
彼女は自分の手を見つめる。
「クロスレンジが得意だから手が大きい方が何かと便利だし、同年代の子たちより背が高いから」
視線は、あたしへ。
「でも、女の子らしくて、ちっちゃくて、柔らかくて、暖かくて、・・・・、そういう手が」
そう言って彼女は一歩、あたしに近づいた。それほどなかった距離は詰まる。
思考の遅れはなかった、今回の敗因は机が邪魔で後ろに下がれなかったこと。
捕られた手。
背に掲げる夕陽の朱。金色が反射して輝く。影になっていても、それより輝く紅。
彼女の作る影があたしを覆う。
影の他にあたしと彼女を繋ぐものがもうひとつ。
合わせられた掌。
手首を基底にぴたりと重ねられたそれは、指が背比べしているような。
ちょうど、並んだ時のあたしと彼女のような。
「やっぱり結構、違うんだね」
緩く、紅が微笑む。
「私、はやての手、好きだよ」
その言葉の続きは霞んで聞こえない。
気がつけば自宅の自室。
てのひらがあつい。
紅に触れた皮膚が焦がれる。
「ギターの授業、あったら、仕事入れよ」
誰に言うでもなく、自分に言うために、決意の言葉。
ギターなんて見たら、あたしの聡明な脳はシナプスとかニューロンとかそんなのを総動員してあの光景を呼び起こす。
ダメだ。
「あつい」
そんなもの。
耐えられるわけがない。
掌を、誰にも見せない様にぎゅっと握った。