そういうのやめてください。



「あ、絵里ちゃんだ!」

午後いちの体育のためにグラウンドにいた海未さんが背後からの声に振り返れば、幼馴染が校舎に向かって手を一生懸命振っていました。
視線の先を釣られるように見れば、声に違わず彼女がそこにいます。
二階の、階段を上がってすぐの窓が開いていました。彼女はそこで、幼馴染に応えるように掌を緩く揺らしています。その顔を彩るのは苦笑に似た微笑み。

「よく気付いたね、穂乃果ちゃん」
「うん! きらきらしてたから!」

もう一人の幼馴染もまた、隣で彼女に手を小さく振っていました。
海未さんにも、彼女の髪が昼下がりの陽光に煌めいているのがよく見えました。窓枠に手を掛けて、こちらを見ている彼女が、よく見えました。
もうすぐ予鈴が鳴る頃、彼女の背後には彼女を気にしながらも自教室や移動教室に向かう生徒たちが行き交っていきます。
その生徒たちの視線が、彼女への緊張と、彼女への思慕が混ざっていることを、海未さんはわかっていました。
同時に、見なければよかったと、思ってもいました。
目が良い海未さんは、彼女が、海未さんの幼馴染二人にとても柔らかな笑みを向けているのが、二人よりもよく見えていました。

「海未ちゃんもほら!」
「え?」
「手!」
「ちょ、穂乃果!?」
「絵里ちゃーん、って」
「ことりも!?」

青空に浮かんだ灰色の雲。そんな気分だった海未さんを、ぼうっとしていると勘違いした幼馴染と、もう一人の幼馴染の加勢によって、海未さんは片手ずつ、操り人形のようにぷらぷらと振り動かされます。なんとも間抜けな姿でした。
力尽くでどうこうすることなんて出来ない海未さんが抗議の声を上げながら、自分の腕が振られている方向をちらりと見ます。
彼女は、笑っていました。海未さんの頬が熱を持つ程度には、楽しそうに肩を震わせて、笑っていました。海未さんがぐっと唇を引き結んで、彼女に非難の目を向けてしまうのはきっと仕方のないことなのでしょう。誰のせいですか。八つ当たりだと頭の隅でわかっていながらも、海未さんは思ってしまうのです。
そんな海未さんに気付いているのか、彼女は笑うのを抑えながらも少しだけ窓の方に寄りました。

「んー……? 絵里ちゃんなんか言ってる?」
「やめてあげなさい、とか?」
「あ、それっぽい」
「ぽくなくてもやめてください!」

そろそろ引き時。それを知っている幼馴染たちは、語尾を強めた海未さんの手を解放しました。
まったくどうして二人はこんなことするんですか。不満と照れを混ぜた小言を口にすると、幼馴染たちは揃ってえへへと笑います。海未さんがその笑顔を前にすると、最終的に許してしまうのも知っているのです。まったく。とやはり息をついて小言を止めた海未さんもまた、幼馴染たちに甘いと自覚を持っています。
そうして、三人がまた校舎を見れば、彼女はまだそこにいて、薄い青の瞳と、桜色の唇に弧を描いていました。
彼女は、人差し指で三人の背後を示しました。振り返ると、クラスメイト達が続々とグラウンド中央に集まり始めていました。そろそろ行った方がいいわ。そう伝えたいのでしょう。彼女に従うように、三人はまたそれぞれに手を振り、今度は海未さんも自分で軽く手を振って、彼女に背を向けました。彼女もまた、教室に向かうでしょう。
幼馴染たちの背中を追いながら、海未さんはもう一度校舎に振り向きました。
彼女がいました。
まだ、彼女はこちらを、いいえ、海未さんを見ていました。
彼女の、力なく下げられていた手が動きます。さきほどはグラウンドを示していた指が、今度は、彼女の唇へ。
導かれるように、海未さんもそこに視線を向けました。海未さんは、目がとても良いです。集中すれば、それこそ、微かな唇の動きも、何となく、わかってしまうのです。


言っている言葉さえ、何となくわかるのです。


幼馴染二人が違和感に気付いて振り返ると、そこには蹲った海未さんがいました。疑問符を付けた声で呼んでも反応がなく、近づいてよくよく見ると、海未さんは顔を両手で覆っていました。艶やかな髪からのぞいた耳が赤いことに、おそらく覆った頬が真っ赤なことにも、気付きました。

「海未ちゃん?」
「どうしたの?」

なんでもありません。声としてはぼろぼろのふわふわした返事と、どこかよろけた足取りで立ち上がって歩きだした海未さんに、二人は顔を見合わせて首を傾げるしかありません。
ふと校舎を見れば、二階の階段付近の窓には、もう誰もいませんでした。














放課後。如何にか幼馴染を言いくるめようとして失敗し、とにかくいいですから先に行きます、と海未さんは一人で急いで部室へと向かいました。
扉を開ければ果たして、そこにいたのは珍しく彼女が一人でした。海未さんは堪らず声を荒げます。

「絵里!!」
「なぁに?」

手にしていた書類から視線を上げて、彼女は微笑んでいました。
これはわかってる顔だ。海未さんはもう色んな感情が混ざって一瞬言葉を詰まらせましたが、どうにか抗議の声を上げます。

「あんな場所で何を言うんですか!!」
「何が?」
「きょっ、今日の、グラウンドで、わた、私たちがっ」
「ああ、三人とも楽しそうだったわね」

さも今わかりました、といった反応で、海未さんたち幼馴染のじゃれあいを思い出したように小さく笑う彼女。
海未さんが二の句を継ぐ前に、彼女は小首を傾げました。

「それで?」

彼女は、右手を上げて、その人差し指を、自分の唇に寄せました。

「私、何を言ったかちょっと思い出せないから教えてくれる?」

目を丸くする海未さんの前で彼女は。

「海未が言ってくれたら、思い出すかも」

あの時と同じように、微笑んでいました。
海未さんがあの言葉を思い出すのに、いえ、あの時からずっと頭から離れない、あまつさえ彼女の声で聞こえた気すらした、その言葉をより強く認識するのに、十分な微笑みでした。
じわじわと顔に集まる熱とどんどん溜まっていく照れやら遣る瀬無さに、海未さんはちょっと泣きそうでした。

「っ、絵里!!」
「自分の名前は言った覚えないわね」

彼女は、完全に知らないふりを決め込むようでした。
この少し後。
今日の体育の前よりも撃沈している海未さんを、幼馴染二人は部室で発見します。
うんともすんとも言わずに机に突っ伏している海未さんに、二人は、部室にいたもう一人に問います。

「絵里ちゃん、海未ちゃんはどうしたの?」
「さあ?」

海未さんの彼女は、上機嫌にそう言いました。



何言ったんスか会長。

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