ぅえりちゃんのせいだもん!



中毒のようだと思った。
最初は少しでいいのに、それだけで満足していたのに、もっともっと欲しくなる。
もっともっと欲しくなると、もっともっと与えられて、もっともっと。際限なく。
与えられなくても求めれば求めるほど、返ってくるそれ。
ぐずぐずに溺れてしまいそうになる。

火傷のようだと思った。
最初は同じ温度なのに、少しずつ温度を上げて、知らないうちに高温になる。気付いた時には酷く熱い。
触れれば触れるほど、じわじわと浸透して行って、離れられない熱。無理に剥がせば肌が傷つく。
だから離れない。離れたくない。ずっと触れていたい。
融かされてしまえば、もっとくっつけるのだろうか。なんて。

柔らかいと思っていた肌は、熱を上げるほどにこの手で形を変えていく。
お月さまの色の様だと思っていた髪は、薄闇の中でも艶めくことを知った。
氷を連想する色だと思っていた瞳が、蕩けるような、水気を含んだ色に変わるのを見ると、背骨を駆けあがる様に冷たさとは真逆の意味で痺れることがわかった。
厳しくて、優しくて、柔らかい声が、高く掠れる音を出すと、こんなにも脳を揺さぶる。
肌に触れて初めて、緊張で指先が冷えていたことに気付いた。けれどすぐに興奮で、触れた場所から熱が移って、同じ熱さになって。初めて触れた内側が、ぬかるむそこが、とてもあたたかくて。もっと熱が欲しくて、奥に。奥に。誰も触れたことがない。私だけの。
てらりと溢れるそれを見るのは初めてで、それを美味しそうだなんて思ったのも初めてで、掠れて悲鳴じみた止める言葉を無視して喉を潤すみたいに味わうことも、初めてで。
泣かせてしまったのも、初めてで。
涙を嬉しいと思ってしまうことも、初めてで。
はじめてではないけど、はじめて、だった。
私の身体の下に、あなたがいることがはじめてだった。

肌と手で。熱を。
耳で。音と声を。
目で。姿を。
舌で。味を。
指で。奥底を。

ほのか、ぁ

私を呼ぶ、その声だけでこんなにも気持ちよくなることを、あなたが教えてくれた。

手を離すのがとてもとても嫌だと思いながらまたねと家に帰って、さらに一夜明けて。
翌日は、変わらず学校。
そして、ホームルームの前。
廊下の先に会いたくてたまらなかった人を見つけて、私は全力疾走した。
その人とは、反対側に。
幼馴染二人の声を背中で聞きながら暴れる心臓をそのままに、階段を一段飛ばしで駆けあがる。
鉄製の重い扉を乱暴に開けて、背中でがしゃんと閉まるのを聞く。冷たいそれに凭れるように、蹲った。
中毒と言うのはいきなり過剰摂取したりすると反動が大きく。
火傷と言うのは時間が経たなければその傷の酷さがわからない。
その事を知ったのはこれとは関係ない時で、かなり後のことだったのだけれど、ああ、と心底納得してしまった。
つまり、そういうことだ。

瞑った瞼の裏に、熱い身体、濡れた瞳。
塞いだ耳に、水音、蕩けた声。
記憶が何度もフラッシュバック。

高坂穂乃果、十六歳。
十六年目にして、勉強にはさっぱり活かされない、思い出への記憶力に初めて頭を抱えました。








というわけで。
私は今、とても大変である。
どのくらい大変かと言うと、授業に全く身が入らないほどである。
いつものことでしょう。いつものこと、かなぁ。
幼馴染の声がステレオで聞こえた気がするけど、きっと気のせい。だって授業中におしゃべりするような幼馴染たちではない。
何とかホームルーム前までにしっちゃかめっちゃかの頭の中を、整理整頓と書いて押し入れに物を詰め込むと読む状態にした私は授業に間に合っていた。でも押し入れをちょっとでも開けたらもう大変だ。また雪崩が起こる。押し潰される。ちょっと開いちゃっただけならまだぼろぼろと零れる程度だけど、それじゃなくて。そうじゃなくて。本人をちょっとでも見ちゃったりなんかすると。そりゃあ、もう。
二限目前の、休憩。
不思議そうに、心配そうにしてきた海未ちゃんとことりちゃんに何でもないの一点張りで隠し通すことに成功。海未ちゃんの寄った眉と、ことりちゃんの下がった眉は、気にしない方向で。

「あ、三年生体育なんだね」

そうして一息ついた私に、痛恨の一撃。顔を向けてしまった条件反射に怒りたい。
見つけてしまった。吸い寄せられるように、ピントが合った、そこ。

ごんっ

「穂乃果!?」「穂乃果ちゃん!?」

急いで首を前に軌道修正。そのまま俯く。
勢い余って机におでこをぶつけたけど、痛みで記憶が呼び起こされるのが止まるのを願ったけれど、さっぱりだめだった。
押し入れ全開。しっちゃかめっちゃか。
ブルドーザーで押し込め作業、再開。
所要時間は、さっきより掛かりそう。

「……耳赤いですよ」
「なんでもない」
「……首も真っ赤だよ?」
「なんでもない」

聞こえる溜息と、苦笑。

「やはり絵里関係ですか」「やっぱり絵里ちゃん関係だね」

今度は成功しなかった。








しかしながらその理由を吐き出すことはしなかった私はえらいと思う。褒められてもいいと思う。褒められるべきである。よしよしされてもいいくらいである。自覚を持った私にとってよかったのは、その日が生徒会のお仕事が忙しく、一日面と向かって会うことがなかったこと。本当は、寂しくて、会いたくて仕方がないけれど、今会ってしまうと私が色々大変だ。
その夜のこと。ベッドで既にうとうとしていた私の意識を浮上させたのは携帯の着信。マナーモードを解除するのを忘れていたので音はならなかった。それがいけなかった。着信音で判断できたはずなのに、そうすれば少しは、ほんの少しは身構えることが出来たのに。
間抜けなことに私は、発信者の名前を見ずに電話に出てしまった。ふぁぃ。半分眠気にさらわれた声。
聞こえてきたのは。

穂乃果?

壁なんて何もない。脳と心に直通の呼び声。
ぶつかって、反動で叩き出されるのは、その、記憶。
頭の中をそれ一色に塗りつぶされた私は言葉を返すことが出来なくて、その言い訳すら出てこない。
眠いのね。小さく笑ったその声すら。
今の私には。

何となく声聞きたかっただけなの、起こしてごめんね。おやすみ。

切れた通話。バックライトの明かりが消えて、薄闇。ベッドの中。
そう、それは場所は違えど、あの時と同じ。
溢れだした、記憶。
悶絶しました。






翌日。
もちろんステータスは寝不足。
回復と称して授業中は睡眠。深い眠りで夢すら覚えていない。寝言を言っていなかったかが一番心配だったけど凄くよく寝てたよとの太鼓判を頂いた。頭に。拳として。
とはいえ、気合を入れていかなければならない。一度決めたら聞かない、と言われた頑固者の精神をこれでもかと発揮してこの場を乗り切らなければならない。ちょっとでも頭の中のアレやソレが漏れ出てしまったら大変だ。主に私のこれからの学生生活とか羞恥心とか他色々が。
けれど、私は甘く見ていた。ことりちゃんが作ってくれるパンケーキよりも甘々だった。
体育の着替え。
ハンドクリームを塗る時。
何気なく見た爪。
ジュースを飲む時。
果てはザツネンを振り払おうとほっぺを叩いた時に、自分のほっぺの柔らかさと色々を脳内で比べてしまったりして。
すごい。記憶ってこんなにも鮮やかに細かく思い出せるものなんだよね。知ってたけど、今は嬉しくない不思議。

「穂乃果ちゃん、頭から煙とか出そうだよ?」

うん。湯気が出そう。熱すぎて。

「そろそろ鬱陶しいのですが」

ひどいよ。
幼馴染二人の声を机におでこをくっつけながら聞く。呆れに心配が混じっている声。

「絵里ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「ううん。してないよ」

したくないよ。だって絵里ちゃん怒ると怖いし、拗ねると可愛いし、可愛いよね絵里ちゃん。

「ほんっと、絵里ちゃん可愛い」
「いえ、それは聞いていません」

そうだね、言わなくても解るよね。絵里ちゃん可愛いよねぇ。綺麗なんだけど可愛いんだよ。凄いよね。

「可愛いと綺麗って一緒に出来るんだよ。凄いよね」
「うん。海未ちゃんもそうだよ」
「ことり?!」

とっても自然に惚気られたので、やっぱりことりちゃんは凄いなぁって改めて思った。

「それで、絵里ちゃんがどうしたの?」

言えるわけがない。














今日も今日とて放課後の練習はある。
それはいい。
練習は大事だ。歌もダンスも楽しいし。だから練習をすることは好きだ。
けれどだめだ。
何がダメって、練習は歌もダンスもある。
歌は声を聞くし。発声練習もあるし。ソロパートの練習とかも会って。吐息とか。そういう。
ダンスは動くし。汗かくし。フォーメーションによっては下手するとくっつくし。体温とか。そういう。
そういうの。とてもよろしくない。
練習は大事だ。だからちゃんとする。
ただし。

「ごめんなぁ、遅れたわー」
「ううん、大丈夫だよ。絵里ちゃんは?」
「もうすぐくるよ」

その言葉を聞いて、タオルと飲み物が入ったボトルを引っ掴む。

「ごめん! 私家の手伝いがあるから先に帰るね!!」
「えっ、穂乃果ちゃん?」

驚く皆に何かを言われる前に屋上から飛び出した。
練習はする。するけど、絵里ちゃんとは極力会わないように。
大丈夫。自主練してるし。大丈夫。これが、この状態が落ち着くまでのことだから。



















快挙である。
指折り数えて四日。私は絵里ちゃんと直接会うことを回避できていた。
ちょっとずつだけど頭の中のあれやこれを整理でき始めているけれど、未だに姿を見るだけでわーってなるから話すなんてもってのほかだ。
もう少しできっと普通にお話も出来るし、顔を合わせても何ともなくなる。と、信じたい。
というわけで、私のこの頭の中はいい感じにきているのだけれど。

「あんたさぁ、嘘つけないにしたって程々って言葉知らないの?」
「何が?」

昼休み。部室で私が帰っちゃった後に決まったフォーメーションの変更とか、そういうのの連絡を海未ちゃんとことりちゃんから聞いていた。
その合間、パソコンと向き合っていたにこちゃんが振り返って、私を見て言った。意味がわからず首を傾げると、後ろに、部室の扉の方ににこちゃんの視線が動いた。

「あ、絵里ちゃん」

がたん。って椅子が音を立てる。自分でもびっくりするくらい大きな音だったから、海未ちゃんもことりちゃんも驚いていて、私は開いてもいない扉を見詰めて、それからやっと気付いた。
ゆっくりと変な方向を向いてしまった椅子を戻して、座り直す。幼馴染二人の突き刺さる視線を避けると、にこちゃんと目が合ってしまった。
計算された角度なのよ、と言っていた首の傾げ方でにこちゃんは笑っている。

「で?」
「い、いや、その、違うんだよ」
「ふぅん、そういうこと言っちゃう?」

この笑顔のにこちゃんは怖い。こう言う時、希ちゃんが一歩踏み出すために優しく背中を押してくれるタイプなら、にこちゃんは力いっぱい両手を引っ張るタイプだ。
ここにいてはいけない。下手すると、根掘り葉掘り、暴露させられる。それはだめだ。私の努力が無駄に終わってしまうって言うか、言えるわけがない。あんな、恥ずかしいこと。
そう思って立ち上がろうとして。

「あ、今日はにこだけじゃないのね」

扉が開く音と、声。
見る前にわかった。

「次の授業の準備しないとだから教室戻るね!」

言い切って。そのまま呼吸を止めて。なるべく俯いて。
私は部屋に入ってきた人が何かを言う前に、その隣を通って、たぶんここ数日で一番近づいた距離を、また離した。















閉まった扉。
そこをじっと見詰めて、ついさっき出て行った背中を思い出して、立ちつくしたまま、首を回す。
今日で、四日目。穂乃果とまともに話していない。メールとか文章は返ってくる。だけど、電話には何かと理由がついて出てくれない。
私、何かしたのかしら。

「いや、知らないわよ」

目を合わせたにこが凄く渋い顔をしながら言う。
そうね、私も知らないわ。だって身に覚えがないもの。
もしかして、嫌われたのかしら。

「大丈夫だよ、いつも通り絵里ちゃんのこと大好きだって惚気る穂乃果ちゃんだよ」
「ええ、ふにゃふにゃでしたよ」

穂乃果の幼馴染二人と目を合わせると、そう言ってくれた。
そうなの、穂乃果ったら、惚気るとふにゃふにゃになるのね。可愛い。見たいわね。
何かをした覚えはない。嫌われてもいない。
じゃあ、何で避けられてるのかしら。

「だから知らないわよ、こっち見んな」

嫌そうな顔をしたにこがそう言った。
そう、よくじゃれているにこも、幼馴染二人も知らないってなると、なんなのかしら。
さっぱりわからないわ。

「つーか喋れ、真顔怖いのよ」

喋らなくても伝わるって凄いわよね。

















寝不足である。
間違いなく、昨日絵里ちゃんに近づいたせいだ。息を止めてたのに廊下で呼吸をした瞬間に、絵里ちゃんの匂いがした気がしたし。俯いてたけどスカートから白い太腿とか靴下とか、見えちゃったし。手とか、指とか、きらきらした髪とか、見えたし。
大混乱ですよ。人通りが少ない校舎の隅っこの方まで着いて、そのまましゃがみ込んじゃうくらいでしたよ。
あの後、海未ちゃんやことりちゃんからの問い詰めにまた何でもないの一点張りを通した。にこちゃんからあんた馬鹿でしょって一言だけ、携帯に送られてきていた。馬鹿じゃないよ。ちゃんと考えて、こうしてるんだよ。会うと、変になっちゃうから。変にならなくなるまで、我慢してるだけだよ。それから部室でのことがばれたのか、一年生の三人から、ばっかじゃないの、それはさすがにだめにゃー、悩み事なら言ってください、一言ずつ。最後に希ちゃんから、そろそろ我慢出来んくなるよ、って。我慢できるよ。我慢、する。

「穂乃果ちゃん、今日はずっと練習出られるの?」
「うん! 今日は大丈夫!」

あんなことを言いながらも、放課後の練習のために集まった部室で、皆は普通だった。
絵里ちゃんは生徒会の仕事で練習に出れないと連絡があったから、今日はまるまる部活に出れる。

「お店の手伝いとか、ないのね?」
「ないよ、最後まで出られるからね!」

皆の言葉に笑顔で返して、鞄を置く。
まだ誰も練習着に着替えてはいないから、これから着替えて、屋上だ。
ホワイトボードに書かれた練習メニューを見ていると、にこちゃんがアイドル雑誌を閉じて、こっちを見る。

「ああ、穂乃果に言い忘れてた」

更衣室の、扉が開いた。
気が緩んでた私は、そこから出てきた人を、真っ直ぐに見てしまった。

「私も生徒会の仕事がなくなって最後まで出られるわ」

絵里ちゃんがいた。
なんで。
周りを、皆を見る。驚いた顔はない。私にだけ言い忘れてた。って、いう、こと。
なんで。
疑問と混乱と、それからもう一つ。
遅れて溢れだした記憶で、頭の中が。

「ずっと練習出来てなかったし、二人でダンス合わせたら?」
「それもいいわね」

そんなことを言って。
絵里ちゃんが。
近づいて。
私は。















「逃げた」

事実を、誰かが言葉にした。
乱暴に開け放たれたせいで、跳ねかえって微妙に閉まらずに中途半端に開いたままの扉。
そこから、視線を足元に落とす。パイプ椅子の背に手を置いて、握りしめる。

「ふ」

耐えきれず、口から洩れた音。

「ふふ、ふふふ」

止まらないそれを、そのまま出す。
周りがざわついているけど、笑いは止められない。

「え、絵里ちゃんが壊れた」

誰かの声。
あら、失礼ね。私は至って正常よ。いつも通り。
けど、そうね。ちょっとだけ不機嫌なのは否めないわ。
だってそうでしょう。
理由もわからないまま。何も言われないまま。こんな風にされたら。
それはもう、しかたないわよね。

「храбрый」 いい度胸ね

上等よ。
顔を上げる。扉を、走り去った背中があった場所を、見る。
一歩、踏み出す。
そっちがその気なら、こっちもそれ相応の対応を取らせてもらおうじゃない。

「覚悟なさい、穂乃果」

扉を押しのけるように、走り出した。

「先生に見つからんようになー」

背後からの声援なのか何なのか、そんな言葉を聞きながら。






















肺が悲鳴を上げる頃に足をゆっくりと止めて、肩で息をする。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
逃げてしまった。つい。逃げてきてしまった。
だってどうしようもなくなってしまうから。逃げるしかなかった。
時間を掛けて、やっと落ち着いてきた呼吸。そのまま溜息をつく。
逃げてきたはいいけれど。

「絵里ちゃん、怒ってるよねぇ」
「そうね」

心臓が止まるかと思った。
さっきまでとは違う理由で、ばくばくとうるさく跳ねるそこに掌を置いて、振り返る。
廊下の先。
私が走り抜けたところ。それなりの、距離。声を張らないと届かないような距離なのに、何故か、静かなそれはよく通る。
放課後の誰もいない廊下に、一番会いたくて一番会いたくない人が、居た。

「穂乃果」

絵里ちゃんは、笑顔だった。
とっても、笑顔だった。
でもどうしてだろう、冷や汗が止まらない。

「逃げ切れるものなら、逃げ切ってみせなさい」

あっ。
これ見たことある。野生動物特集だ。肉食獣だとか、ハンターだとか、簡単に言うと、獲物を追い掛ける豹の目だった。
考える前に、私は駆け出していた。























どこをどう走ってきたのかは覚えていない。背後を振り返るなんて怖くてできない。止まって足音に聞き耳を立てるなんて出来るわけがない。
今の私に必要なのは、ただ走ることだけ。
けど、流石に限界というものはあるわけで。
ふらつく足で階段を登り切り、鉄製の扉に手を掛ける。心臓を落ち着けながらゆっくりと開けて、顔だけ覗かせれば、誰もいない。あわよくば皆に助けを求めようとしたけど、誰もいないのなら誰もいないで、とりあえずここで少し休憩しよう。
屋上に足を踏み出す前に、後ろを確認。よし。いない。足音も聞こえない。
自然に閉まっていく扉をそのままにして、フェンス際に近寄る。
網目に指を絡めて、顔を上にあげる。空色。絵里ちゃんの色。
どうしよう。
あの日から何度も何度も重ねている言葉をまた一つ積み上げた。
フェンスを掴んだ手に、力を入れる。目を瞑る。
こんな時でも、ぼんやりと浮かんで消えるのは、やっぱりあの時のこと。瞳。肌。柔らかさ。熱。声。
唇を強く噤んで、頭を振った。ああもう。本当に。ほっぺも耳も熱くなる。
どうにもならない。
頭の中に溜まったものを外に出したくて、肺いっぱいの息を吐き出す。
後ろで、金属音。
振り返って、かくれんぼも鬼ごっこも得意だったのになぁって、そんなことを思ってしまった。

「見つけた」

絵里ちゃんがそこにいた。
小さく肩で息をして。生徒会長なのに。走ってきたんだ。探してたんだ。こんな時なのに、それが嬉しい。
なのに。は、は、と息をついているその姿が、どうしても。

「上に逃げるのは、利口な方法ではないわね」

一歩、一歩。絵里ちゃんが近づいてくる。
そうだよ。私は利口じゃない。たった一つのことで、こんなにもいっぱいいっぱいになる。どうしようもなくなる。
抑えなんて、利かなくなっちゃうんだよ。絵里ちゃん。
フェンスを押しつけるように離して、私は駆け出す。逃げないと。いけない。

「穂乃果!」

けれど、この距離でそんなの絵里ちゃんが許してくれるわけがなくて、私は、ついに絵里ちゃんの腕に捕まってしまった。
いつもなら優しく包んでくれる掌が、ぎゅって、痛いくらいに掴んできて、外れない。逃げられない。

「何で逃げるの!」
「逃げてないもん!」
「逃げてるじゃない!」
「違うもん!」

顔を見たくなくて、見られたくなくて、俯いて、瞼を瞑って、言い返す。違うもん。違う。逃げてるんじゃない。どうしていいかわからないだけ。
私の腕を掴んでいた手が、ふと、緩まった。指先だけが、少し押し込むように触れたまま。

「ほのか」

微かに震えた声にはっとした。顔を上げて、見る。
絵里ちゃんは、私を見ていた。私だけを見ていた。その目が、澄んだ綺麗な空色が、不安に塗りつぶされていることくらい、私はすぐにわかってしまう。そんな姿を見せることをあまり出来ないこの人の、そういうものを、見せてもらえる居場所にいる。一番近くに、居させてもらってる。一番近くに、居てもらっている。
どうしようもない。絵里ちゃんのこんな顔を見てまで、頭の中をちらつく映像にかき乱される私は、本当に、どうしようもない。
どうしようもないから、どう言っていいかわからないから。

「えりちゃんが」

また俯いて。
もう。どうにでもなれ。

「えりちゃんがえっちぃからぁ……!!」

ありのままを言った。
色んなものを押し籠めた言葉。これ以上ないってくらいの完璧な言葉だった。
だって。そうじゃないか。それしかないじゃないか。

「……はい?」

たっぷりと間を置いて、間が抜けた音が、頭に落ちてきた。
しかたないじゃないか。どうしようもないじゃないか。

「だってえりちゃんがえろいから。しょうがないんだもん。ほのかわるくない!!」
「えっ、え、ちょ、ほの」

ぽろぽろこぼれ出したものを、押し入れの扉を自分で勢い良く開く。雪崩の様な記憶のパレード。ああもう。そうだ。それしかない。これしかない。これだけだ。だって。だって!!

「あのときのえりちゃんすんごいえろいからずっとあたまのなかぐるぐるしててえりちゃんみるともっとぐるぐるしてがうがうになるんだもん!!」
「ちょっとストップ、何言ってるかわか」

全部言ってるのに。何で。
顔を上げると、不安に染まった瞳はない。下げられた眉と、わからないって顔。
だから!! 簡単に言うと!!

「えりちゃんが!! えろ」
「何叫ぼうとしてるの!?」

口を掌でばちんと塞がれた。痛いよ絵里ちゃん。
言えって言ったり言うなって言ったり、どっちなの絵里ちゃん!!
穂乃果わかんないよ!!

「……最初から説明しなさい」

こんな時なのに、ほっぺが赤い絵里ちゃんはやっぱり可愛いって、思った。
















「……つまり?」

話し出したらもうほっぺどころじゃなくて耳まで赤くなった絵里ちゃんは、まるで頭が痛いみたいにおでこを抑えていた。
私はというと、今も記憶がパレードしてて、それを思いっきり伝えようとしたら、そこまで細かく言わなくていいわよ!! って怒られて、それでも全部話したら何となく、絵里ちゃんを前にしても、話していても、こうやって向かい合って座っていても、頭の中に熱が集まってどうしようもなくなることはなかった。

「絵里ちゃんがえっちぃせいだよ。穂乃果悪くないもん」
「えっ、何それ私が悪いの?」
「うん」
「ええぇ……」

絵里ちゃんのせいだ。それはもう決まってる。
私がこんな風になっちゃうのは、全部、絵里ちゃんのせいなんだよ。絵里ちゃん。
開き直りって、たぶんこういうことなのかもしれない。
ちらつく記憶。赤くなった耳が気になって、ずりずりと絵里ちゃんに近づく。膝小僧がぶつかっちゃうから、膝を立てて、スカートだけど、絵里ちゃんしかいないし。脚の間に、絵里ちゃんを抱え込む。

「絵里ちゃん」
「何なのもお……それが理由なの……」

絵里ちゃんのおでこが私の肩に着地した。
力が抜けた肩。鼻先で揺れる金色の髪。耳。桜色に染まった白い肌。項。匂い。くらくらする。絵里ちゃん。ねえ絵里ちゃん。穂乃果、言ったよ。どうして絵里ちゃんを見れなかったか、言ったよ。絵里ちゃん。

「怒んないの?」

小さい声も、耳元で言ったら届いてしまう。
言ってわかった。そう思っていたから、伝えるのが怖かったのかもしれない。軽蔑されるかも、って。

「怒るって、どんな風に?」
「そ、んなこと、考えないの、って」
「んー……」

絵里ちゃんの腕が、背中に回る。
苦しくないくらいの力で、抱きしめられて、絵里ちゃんは言う。

「だって、私も穂乃果のこと、そう見てたことあるし」

しょうげきのじじつだった。
そりゃあ最初だって絵里ちゃんの方がそういう穂乃果のこと、あれだし、その後も、何回も、その、あれだし。
ぶわっと、顔が熱くなる。

「……ぅえりちゃんのケダモノ」
「じゃあ穂乃果だってケダモノ」
「これは絵里ちゃんのせいだから私は違うの!」
「何それ」

笑う絵里ちゃんに抱きついて、ほっぺを首筋にくっつける。
同じだと言った。絵里ちゃんも、同じだったって。なら、わかるはずだ。私がどんな風だったか。なのに、絵里ちゃんはさっきまでの私みたいになったりはしてない。それが不思議だった。

「絵里ちゃんは、どうしてたの」
「どうもしないわ。ただ、可愛かったなぁ、って」
「……」
「いつも通りぎゅってしたりすると、やっぱり可愛いなぁ、って」

ものすごく恥ずかしい。けど、パレードとは違う記憶を引っ張りだす。
絵里ちゃんは、いつも通りぎゅっとしたり、頭を撫でてくれたり、そういうことをしていた。
私は私で、なんとなく気恥ずかしくて、でも嬉しくて、甘えて。
ああ。ちょっとだけ、思い出した。あの時の絵里ちゃんは、ずっとずっとやさしく、笑っていた。
それを思い出して緩んだ私の腕を解いて、絵里ちゃんに身体を離される。それでもとても近い。

「ねぇ、穂乃果」

頬を掌で包まれて。目の奥に吸い込まれそうなくらいの、近さ。

「頭の中、私のことでいっぱい?」

うん。
いっぱいすぎて、声が出なくて、頷くしか出来なくて。

「それなら、あの時の私みたいに」

吐息が、唇に触れるような、距離で、蕩けたような空色。
絵里ちゃんが、笑う。

「もっと、夢中になってくれる?」

ぶちん。
って、何かが切れた音が聞こえた。たぶん、切っていいものだった。

「穂乃果? ……ほの、えっ、何、ちょっと、な、何、なん、待ちなさい、こら、ま、待てっ、ちょっ」

絵里ちゃんのせいだもん。














二つ目の背中が消えてから三十分を経過したところで、部室で事の成り行きを一応見守ろうと待っていた部員たちの耳に、廊下から聞こえる声。
声量を増していくそれは一人のものだけで。はて。と部員たちが顔を見合わせているとようやく開いた扉。

「えりちゃんえりちゃんごめんなさいえりちゃんごめんなさいもうしませんっていうかまだなにもしてないよえりちゃん!!!」
「ステイ!!!」
「なんで!?」

金色を追っかける橙。見慣れた姿がそこにあり、見慣れたくない言い合いがそこにあり。
ああ、何かしたんだろうなぁ。ああ、結局犬も食わないことだったんだろうなぁ。と生温か過ぎる空気が流れ。
ややあって。

「よそでやれ!!」

ついに部長の怒声が響きました。



今日も平和です。

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