しつけ。



布が床に落ちる音は、どうしてこんなにも耳に付くのだろう。
日中なのに締め切ったカーテン。
室内にこもった空気は、少し重苦しい。
壁の一面に並ぶロッカー。据えられた長椅子。足元にはこのためにある、暗色のラグ。
遠くで聞こえる運動部の掛け声も、極近くで聞こえる物音に掻き消された。
もう何度も繰り返したことなのに、少し躊躇ってしまう。体育の着替えとは違う。目に触れる、指に触れられる、そのためにすることなのだから。
少し古い蛍光灯の光の下、Yシャツを肩から滑らせる。寒くもないはずなのに、肌が泡立つ感覚。
腕を抜いて、緩く畳んだスカートの上に、やはり緩く纏めて、シャツを置いた。
背を向けていても、背を向けているからこそ、突き刺さる。
視線。
振り返れば、飴色。甘い、甘い、声。

「い、痛くないの?」
「痛かったわよ」

ことりの問いに、溜息と綯い交ぜの返答をした。









急で悪いんだけど、今日採寸しちゃっていいかな。
両の掌を合わせて言ってきた衣裳係にノーと言える人がいるだろうか。答えは、逃げようとする人がいる、だ。
見るからに狼狽したのは二人。隠そうとしてたけど失敗したのが一人。
内二人は言い訳を並べ立てて逃亡。後日“誰か”に測ってもらった寸法をサバを読まずに教えるということで衣装係がやっと頷いた。
残り一人はどう聞いてもぼろぼろの言い訳なのか何なのか、そんなことを言っていたけれど、無駄に終わる。
それはそうよね。だって本人には何の問題もないんだから。
ちらちらとこちらを見ていたけれど、無視をした。
他の部員と一緒に奥の更衣室に項垂れて消えていくのを見送り、採寸用具を手にしたことりに声を掛ける。

「ごめんなさいことり、生徒会の仕事でやり残したことを思い出したから、私はあとでいいかしら。希には手伝いはいらないって伝えてくれる?」

瞬き。
口元を少し上げると、ことりは小さく眉を下げて笑う。

「うん、皆のが終わったら連絡するから、その頃来てくれるかな」

お願いね。
そう言って、部室を後にした。ことりから皆に、そう伝えてくれるだろう。
私は生徒会室で今しなくてもいい仕事に手をつけ、時間を潰し、連絡が来てから部室の、更衣室へと戻った。
そこにはもう、ことり以外いない。

「皆はもう練習に行ってるよ」
「そう」

ノートにボールペンを走らせることりは、何も聞くことはない。わかっているんだろう。
私が、下手な嘘をついた時点で確信し、あの子が慌てた時点で気付いていた。
息をついて、ローファーを脱いでラグに上がり、靴下から爪先を抜く。スカートのホックに手を掛けて、Yシャツのボタンに手を掛けて。そうして。あの声、と言うわけだ。

「すっごいくっきり。しかもいっぱい」
「力加減しないもの」

メジャーが肌に触れる。背肩幅から測りはじめたことりの視線は、メモリとそれに集中しているだろう。
溜息が洩れる。

「……うーん、歯並び綺麗だよねぇ」
「こんなことで知らなくていいわよ」

首の付け根あたりから、肩にかけて。無数に付いた、それ。濃淡があるけれど、どう見たって、それ以外に見えない、それ。
他の人になんて、それこそ事情を知らない人になんて見せられない。

「初めて見た時びっくりしたけど、ないとつい探しちゃうよね」
「えっ……ちょっと待って、前の採寸の時、やたらと時間かけてたのはそのせいなの?」
「えへへ、うん」
「やめてよもう……」

どっと疲れる。背後で笑う声は軽いけれど、こちらは堪ったものではない。
まさか太ったのだろうかとひやひやしたものだ。

「んっ、……なぁに?」
「あ、ごめんね、くすぐたかった?」

無数にあるそれのひとつ。そこに、メジャーとは違う、少し冷たい指先がなぞっていくものだから首を竦ませてしまった。
首だけで振り返れば、ごめんなさいって眉は下がってはいるけれど、ちっともそう思っていない顔。

「これって、どんな感じなの?」
「痛い」
「そういうんじゃなくてぇ……」
「どう言う意味で?」
「もう、絵里ちゃんいじわるだぁ」

ここで頬を桜色に染められてもこっちが困る。
私に使う表情じゃないでしょう。それ。
顔を前に戻して、何か言いたげな雰囲気だったけれど、またメジャーが当てられるのを瞼を閉じて受け入れる。
しばらく、ノートにボールペンが走る音と、メジャーの音だけが、室内を支配していた。
背中側をあらかた計測し終えたことりが、今度は前に立つ。
回されたメジャーを見るために少し伏せられた瞼と、前髪と、縁を彩る長い睫を見ながら、言われた通りに呼吸を繰り返す。

「興奮しすぎると」
「え?」
「どうしようもなくなって、こういうことしてくるの」
「……あっ。……えっと、そう、なんだ」
「そう」

目を丸くして、こういうこと、の、そこに視線が行った後、ことりはさらに視線を下げた。耳も、赤い。
ずっと見上げられなくてよかった。顔が熱い。ていうか、何で前に回ってから言っちゃったの私。
手の甲で口元を隠す。沈黙になるのが嫌で、続ける。

「やめて、って言っても効果ないし」
「逆に凄く興奮させそう」
「えっ、なにそれ、何で? えっ、えっ? あれ?」
「えっ」
「……」
「あっ、身に覚え?」
「……もうやだ」
「それも言っちゃだめだよ、たぶん」

顔を掌で覆う。じゃあ何。あれは私が悪いの。ううん。私は悪くない。悪くない。
ことりに非があるわけではないんだけど、恨みがましく見てしまうのはしかたのないこと。
くすくすと、笑われる。

「ごめんなさい、って謝ってくれはするんでしょう?」
「するけど」
「ああ、想像できるなぁ。ごめんね、ごめんね、もうしません。って」
「……」
「で。絵里ちゃんは甘やかしちゃう、と」
「頭の中読むのやめて」
「当たりなんだ」

だってしょうがないじゃない。
しょうがないの。あれは。
笑うのを止めないことりに、何だか少し腹が立つ。そうよね。

「いいわよねことりは」
「何が?」

だって。
脳裏に浮かぶことりの隣。

「そっちは、“待て”も“おあずけ”も得意でしょう?」

小首を傾げていたことりは、すぐに理解したのか、笑った。
苦みを含んだ、表情。

「上手すぎて、よしって言っても、何も言わなくてもずっと待ってるから困ってるんだけどね」

ああ。
こっちまで苦く笑ってしまう。
わかるかも。ことりに対しては特に、そうなんだろう。
ぷく。と、小さく頬を膨らませて、こっちを見る目が少し非難染みている。

「絵里ちゃんのとこは、“おいで”が完璧でしょう? 私はそっちの方がいいなぁ」

おいで。
自分で言ったところを想像して口元が引きつる。
うん。たぶん、ことりのとこのが待てが上手いように、それだけは他のとこに負けない、かも。

「言っても、来ないんだもん。大変なんだよ、いつも、色々」

ぷくぷく。さらに頬が膨れている気がする。
今度はことりに対して、苦く笑ってしまった。

「言わなくても来るのはどうなのかしらね」
「えぇぇ、そっちのがいいよぅ」
「私としては“待て”を完璧にさせたいわ」
「それは絵里ちゃんが甘々なの直さなきゃ」
「ことりは甘々なのに“おいで”がうまく教えられてないじゃない」
「それとこれとは違うよぉ」

待てがいいか。おいでがいいか。
不平不満、所謂ないものねだり。
そんなことを言い合ってしばらくして、メジャーが肌から離れる。ことりが腕を下ろした。

「はい。おしまい」
「お疲れ様」

私は鞄から練習着をとりだして、それを身につける。
もう練習着のことりがノートに何かを記入しながら待っててくれているから、いつもより急いで。

「絵里ちゃん」
「ん?」
「それ。体育の着替えとか、今更だけど練習着の着替え、どうしてるの?」
「生徒会長ですから」
「あー、職権乱用だぁ」

音楽室やトイレを使うより良いと思うのだけれど。
髪を結い直して、前髪をピンで止めて、完成。
ロッカーに荷物を入れて、靴も履き替える。
その頃には、ラグも片づけられていて、ことりはノートを鞄にしまっていた。

「絵里ちゃんは衣装、何か希望ある?」
「肩口が隠れる」
「だよねぇ」

やっぱり、と笑われた。笑い事ではないのだけれど。
鍵を手にして、更衣室を出る。
机を避けて出入り口に足を進める間に、ふと気になって聞いてみた。

「他に希望出てるの?」
「あるよー、個別だけど」

ドアノブに手を掛けて、振り返る。
えっとね。ことりは指折り、言う。

「胸元。肩甲骨らへん。あと太腿の付け根あたり」

それが、私が出した希望と同じ意味合いだとするならば。

「……ぁー。……うん」
「うん」

色々と、察した。



その頃。屋上にて。
「えりちゃんにおこられる」
「今度は何したんですか」

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