弱点。



欠伸を漏らし、小さく息をついたところで海未さんは気付きました。
同時に、しまったと思います。
ここにいるのは、自分だけではないのです。

「海未、ちゃんと休んでる?」

ほら、机の角を挟んだ、すぐ傍から気遣わしげな視線が向けらます。
どうして資料に集中したままでいてくれないのですか。とは思いますが、こういうところに気付いてしまうのがこの人、絵里さんなのです。
口元に当てていた手を下ろし、居住まいを正し、海未さんは少し赤くなった頬を隠すようにさも涼しげに言います。

「ええ、休んでいます」
「そう?」
「はい」

頷き、見詰めあうこと数秒。
明らかに疑っている絵里さんの目がまた資料に戻るのを見て、海未さんはそっと息をついていました。
自身もまた手にしていた資料に視線を落とし、そこには先ほどと同じ光景。

「今日はいい天気ね」
「そうですね」

足されたのは、他愛もない会話。
絵里さんのそのいつもと変わらない穏やかな声に応え、海未さんもまた資料へと意識の半分以上を向けていました。

「昨日の雨が嘘みたい」
「雨なんて降りましたか?」
「ええ、今日って言った方がいいかもね、夜中の、二時くらいだったかしら」
「私の家の近くは、降っていなかったのですが」

つまり、特に何の思慮もなく、言葉を返していたのです。

「そう。起きてたのね」
「!?」

誘導尋問。
脳裏に浮かぶ四つの漢字が表す現状と、いつの間にか頬杖をついてこちらを見る、弧を描いた空色。
中途半端に固まった手から、資料が滑り落ちて、机に投げ出されます。
こうも反応してしまっては、たまたま目が覚めた、そんな言い訳すら通じないでしょう。
妙に笑顔の絵里さんから、海未さんは、ゆっくりと視線を逸らしました。

「海未?」
「……違うんです」
「何が?」
「作詞が、その、妙に、筆が進んでと、いいますか」
「そうなの」

咎めることはありませんでした。
叱ることも、ありませんでした。
ただ、無理はしないようにね、とただただ心配を形に、言葉にされては頷くしかありません。
しかし、それだけでは終わりませんでした。
絵里さんは、部室の奥を指先で示します。

「海未、更衣室で少し横になりなさい」
「いえ、結構です」
「寝ちゃってもいいように携帯のタイマーかけておくから。それでも起きられるわよね?」
「起きられますけど、そうではなくて」

人の手で起こすのではなく、機械の機能を使うあたりが、理解されているというか、何と言うか。
渋る海未さんに、絵里さんは尚も笑顔で提案します。

「何なら枕も用意するわよ」
「枕なんてどこにも……」

幼馴染のように旅行には必ずマイ枕を持っていくわけでは、それこそ学校に持ってくるわけがないでしょうに。
眉を顰める海未さんに、絵里さんは座っている椅子を引きました。
机が邪魔して見えなかった、そこ。
自らの太腿に、絵里さんは掌を乗せました。
理解します。したくはないけれどしてしまいます。
何より、絵里さんは笑顔でした。

「どうぞ」
「……絵里、何の冗談ですか」
「あら、私の膝枕じゃご不満?」
「そうではなくてですね……」

寝不足によるものではない頭痛を感じながらも、海未さんは首を横に振りました。
どこか色気すら発する笑みを浮かべて首を傾げる絵里さんに、余計に頭痛を覚えてしまいます。
わざとらしく溜息をついて、机の上に散らばってしまった資料を纏め始める海未さん。

「海未」
「だめです」
「海未」
「だめなんです」

何度名を呼ばれようと、視線すら向けずだめの一点張り。
それでも呼ばれ続けて、より強く拒否の言葉を言おうと、海未さんがやっと絵里さんの方を向いたその時を見計らったかのように。

「海未。ね?」

覗きこむような、そんな瞳と、甘い、声。
ぶれる視界に重なるのは、彼女とよく似た誰かの瞳。
椅子の背を鳴らして、海未さんはのけ反るように身を引きます。

「っ、ず、ずるいですよ! 亜里沙みたいな目で見ないでください!!」

口元に手の甲を宛がいながら、赤くなった顔で、海未さんはほぼ叫んでいました。
言って、顔を逸らし、手に隠された唇がぎゅっと引き結ばれたのがわかったのでしょう。
絵里さんはふっと頬を緩めます。

「ああ、海未は亜里沙に弱いものね」

妹の笑顔を思い出しながら、絵里さんもまた、椅子に背を凭れました。

「だめかぁー……」

ため息混じりのその声。
やっと諦めてくれたか、と海未さんは再び、違う意味で溜息を吐きだします。
また散らばってしまった資料に手を掛けようとしたのです。

「ねぇ、海未」

その、気が緩んだ瞬間を狙ってなのか、狙っていないのか。
海未さんは、顔を、視線を、彼女へと向けます。
絵里さんは、悪戯を思いついた子供のような顔をして、問いかけました。

「弱いのは、どっちの瞳に似ているせいなのかしら」

妹に似た、おねだりの瞳か。
姉に似た瞳での、おねだりか。
答えは。








開けかけた扉から物凄い勢いで飛び出してきた後輩を何とか避けた先輩は、その後輩の背を呆然と見送ってから室内を見ました。
そこには、口元に手をやり、小さく笑う同級生。

「……後輩に何したのよ」
「うん、限界値わかってきたわ、次は大丈夫」
「だから何してんのよ……」

うんざりしながら、先輩は言いました。



絢瀬さんマジいじわる。

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