おにごとですぱれーど。



割と全力でこういうことしちゃうあいどるたち













予想もつかない事態は、やはり予想もつかない一言から始まってしまうのです。

「たまにはちょっと違う運動したいねー」

練習前、誰かが発したその一言。
真顔のリーダーがしばらく黙り、頷きました。

「よし。鬼ごっこしよう」
「えっ」

ブレーキなんてありません。








ブースターはいくつかあります。








良い子の増え鬼の遊び方。

いち。鬼は子に逃げる時間をはじめに少し与えてください。
に。子はひたすら逃げてください。
さん。追跡が開始され鬼に接触された子は、鬼に追加されます。
よん。子鬼に捕まった子も、鬼に追加されます。
ご。制限時間経過、もしくは子が全員捕まったら終了です。

大体こんな感じです。
他諸々、ルールが箇条書きされたホワイトボード。
持久力と瞬発力と思考力を試す練習という名目の下、たまには息抜きを兼ねてという建前の下、ただ遊びたいという本音で以ってして着々とゲーム開始時刻は迫っていました。

「ただやるんじゃつまんないし、罰ゲーム用意しようよ」
「遊びじゃないですよ、練習の一環です」
「捕まって鬼になった人は、元々の鬼から何か一つ罰ゲームね」
「聞いてますか?」
「海未ちゃん、諦めよう? ね?」
「……」

最後まで抵抗を示した人が項垂れて、準備は完了。
ホワイトボードに罰ゲームと赤字ででかでかと書き加えられていきます。

「鬼が全員捕まえられたら?」
「そしたら、元々の鬼に、皆から一日ずつジュースおごりとか」
「いいねそれ」

罰ゲームありと言うスリル、元々の鬼にもそれなりのご褒美ありと言うメリット。部室の熱気は高まっていました。主な熱源は決まっていました。
長机を囲んで、九人が突き出した利き腕。

「さいしょはぐー。じゃーんけーん」

リーダーの音頭で、繰り出されるであろう三つ巴。
ちなみに九人でじゃんけんをした場合、一発で勝敗がきまる確率は1/729です。約0.0013%です。
ですからそう簡単に決まるわけが。

「ぽん」
「あ、うちや」

ありました。ここで決めてくる人、それが彼女です。
鬼が決まったその瞬間、罰ゲームも決まったようなものでした。
その人を見詰めて真顔になる部員たち。数人の顔が青ざめていました。
鬼は、椅子に腰を下ろして携帯を手に、笑顔で言います。

「じゃ、百秒たったら追いかけるわー」

親指が、液晶に触れました。
スタートダッシュは速やかに。産毛の小鳥どころではありません。ハヤブサです。
一陣の風と成り、部室を駆け出した数人の背中を、幾人かの注意が追いかけました。
廊下は、走っちゃいけません。






鬼、一人。子、八人。

ゲームスタート。






希さんは時を刻むそれを眺めていました。
その顔に、焦りの感情はありません。
開いたアプリはメール機能。流れる指さばきで文字を打ちこんでいきます。
ものの二分で完成した本文。この時点で約束の百秒は越えていました。
そして宛先に選んだのは、部員の一人。

うちが備品のビデオカメラ管理してるってしっとるよね? そんでな、データを見返してたら電源入れっぱなしで置いて行った日があったみたいで、この前の水曜の昼休みの映像が残ってたんやけど、その一部のキャプチャが携帯に取り込まれてて、しかもその画像が皆に一斉送信用意が出来てて、あと二分くらいで送信ボタン押してしまいそうやん? どうしたらええと思う?

送信。とほぼ同時にストップウォッチのラップ機能を使用。
それから子を探しに行くこともせず、希さんはただ鼻歌を奏でていました。
鼻歌が二番のAメロに差し掛かろうという頃でしょうか、何やら廊下から騒がしい靴音が聞こえ始めたのは。
靴音は、部室の前で急停止をして。

「希ぃいいいいぃぃいいいッ!!!」

扉を蹴破らん勢いで開け放ったのは、我らが部長でした。
鬼気迫るオーラを立ち上らせつつ登場したにこさんに、希さんは難しい顔でストップウォッチが刻んだ時間を見ていました。

「ふむ、108秒。ベスト更新?」
「うっさいわ!!!」

どのくらいの距離を走ってきたかはわかりませんが体育の授業では見たことのない記録を叩きだしていることでしょう。
上がった息とは別の意味でも肩を上下させて希さんへと詰め寄るにこさん。

「それを!! 早く!! 消しなさい!!!」

希さんから件のメールが準備されているという携帯を奪い取ろうと、にこさんは手を伸ばします。
酸素不足とは別の意味でも、その頬が赤に染まっていました。

「はい、たーっち」

不用意に近づいた結果。
何よりあまりの衝撃に、にこさんは色々と忘れていたのでしょう。
例えば、希さんが鬼だということとか。
伸ばした手に、軽くぽんと合わせられた掌。

「にこっち、鬼に追加っと」

固まるにこさんをそのままに、希さんは新たに打ち込んだ文章を、部員に一斉に通知しました。
子の捕獲。つまり鬼の追加。
一息ついて、希さんはにこさんを見ます。

「ところで水曜日の昼休み、何かあったん?」

そしてこの綺麗な笑顔です。
にこさんはゆっくりと状況を呑み込み、作戦の全容を把握します。

「正攻法で捕まえなさいよあんた……ッ!!」
「心理戦は基本ってにこっちが言うてたんやん」
「それババ抜きしてた時でしょ!?」

机に拳を打ちつけて項垂れ、絞り出すように言われた苦言に、希さんはのほほんと返しました。







カード類でもよく遊んでます。

鬼、二人。子、七人。








やっと気を持ち直した子鬼一号であるにこさんは闘志を燃やしていました。

「二手に分かれるわよ。何としても被害者を増やしてやるわ……」

道連れという言葉が脳内を占めているのは容易に想像できます。
希さんはやはり笑顔を崩しません。

「にこっち、笑顔が怖ぁい」
「誰のせいよ!!」

にこさんは現在ちょっと心がささくれ立っていました。
肩をすくめた希さんに、にこさんはパソコンの電源を入れつつ告げます。

「私はちょっと用意があるから、先行ってなさい」
「はいはーい。鍵閉めてきてなー」

ひらりと手を振り、希さんはようやく部室を後にしました。
走ることもせず、いつものように歩いてやってきたそこ。
予想していた通りの場所に、思い描いた通りの人を見つけて、希さんの口角は自然に上がります。

「えーりち」

語尾に音符でもつきそうな呼び声でした。
据えられたベンチ、そこに座っていたのは絵里さん。
鬼ごっこ中とは思えないほどのんびりした雰囲気を醸し出していましたが、呼び声に、その声から既に誰かわかっていたのでしょう、苦笑気味に振り向きます。

「よくわかったわね、ここにいるって」
「校舎内は走っちゃいけません。って言うのをわざわざ破らざるを得ない場所にいるとは思わんかったんよ」

生徒会長。
生徒の見本となるべきその人が、まさか廊下を走り抜けるわけにもいきません。
走れないのかと言えば答えは否ですが、それをしようとしない人が絵里さんなのです。
だからこそ、選んだのは校舎外と言う走っても何も言われない場所と隣り合う、渡り廊下。

「ハラショー。素晴らしい分析だわ」

緩く拍手をしながら立ち上がる絵里さん。
さすが希さん、とでも言えばいいのでしょうか。考えていることはお見通しだったようです。
ざりっと地面を擦る靴底。

「でもそう簡単に捕まらないわよ」
「うーん、せやろなぁ」

先ほどの希さんと同じように口角を上げる絵里さんは、こういうことをそれなりに楽しんじゃう人です。
相手が希さんだということも、その気持ちを助長しているのでしょう。
希さんと絵里さんの距離は、およそ三メートルほど。詰めようと思えば楽に詰められますが、離れようとするのも容易い距離です。
その空白を埋めることなく、希さんは立ち止まったままでした。
そうして、絵里さんが距離をさらにとろうと動き出そうとした、その瞬間。
絵里さんに向いていた深い翠色の瞳が、少し丸くなり、絵里さんの背後へと向きます。

「あ、先生」

身体に沁みついた反射。考えるということを挟まず、絵里さんは振り向きます。
生徒会長の顔で、生徒会長の立ち居振る舞いで、背後からやってくるであろう教師に挨拶をしようとして。

「はい、捕獲」

背後から、緩やかな拘束を受けました。
お腹に回った両腕と、背中に当たる柔らかさと、耳元で聞こえる可笑しそうな声。
止まった思考で認識するのはそんなこと。視界に移るのは誰も居ない廊下。

「地味な捕まり方やなぁ、えりち」

くすくすと笑い交じりに言われれば、脱力するしかありません。
まんまと、引っ掛かった。つまりはそういうことです。
肩に顎を乗せられて、んー? とからかうように言う希さんに対して、いいえ、自分に対してでしょうか。絵里さんは溜息をつきます。

「それだけ希が私の性格わかってるってことでしょ」
「ふふっ、そうかもなぁ」

そう言ってやはり小さく笑われれば、絵里さんも笑うしかありません。
未だ拘束は解かれることなく、なんとなく笑いが止まらなくて、希さんと絵里さんはしばらくそのままでいました。

「何してんのよ……」
「見てわからない? 捕まっちゃった」
「にこっちもこっちに来たんねー」

心底わけわからない。とばかりに半眼でこちらを見るにこさんの登場でその時間は終わりました。
希さんは抱き付いたまま、そして絵里さんもそれを拒むことのないまま、にこさんに返します。
そんな同級生を溜息で流し、にこさんは一人口端を上げます。

「絵里ちゃんも捕まったんなら機動力も上がるわね」

部員の中でも運動神経で上位を担う絵里さんの鬼追加は、戦力の大きな上昇と考えたのでしょう。
しかし、そのにこさんに二人はさも当たり前のように口を開きます。

「私校舎内は走らないわよ」
「うちもや」

生徒会長と副会長は、揃ってそう言いました。
二人は、にこさんの笑みが憤りへと変質していく様を見ました。

「この役立たず!」

ついでに怒号も受けました。







三年生組、全滅。


鬼、三人。子、六人。








放課後の校舎でも一際人影の少ない区画と言ってもいいでしょう。
整然と並んだ本棚と、そこに収まる無数の書籍。
閲覧席の、一つ。司書からも、図書委員からも見えることのない、窓から離れたその一脚。
そこに座る人は、純文学の文字列を視線でなぞっていました。
薄く日焼けした頁に掛かる、影。
誰かが近くに来たという証拠。
真姫さんが視線を上げれば、そこには鬼と、子鬼。

「読書とは、余裕ね」
「疲れたくないのよ」

紫紺と金色を目にして、真姫さんは息をつきながら本を閉じます。
携帯を見れば、二度目の子鬼追加の知らせから十分も経っていません。

「何?」

視線を改めて上げると、そこには頬を緩ませた顔がふたつ。
真姫さんの経験的に、あまりいい気分になれそうもない種類の笑顔でした。
絵里さんがそんな様子すら楽しげに、問います。

「真姫、私たちの顔見てちょっと残念そうにしたでしょう?」
「してない」

向かう視線は明後日。
そんな真姫さんに、苦笑を洩らす先輩たちは、口々に言います。

「あの子は探しに来ないんじゃないかしら」
「そやなぁ、ここには来ないやろなぁ」

あの子。その名前を口にすることはありません。
先輩二人の、全部わかってますよ、という声色に真姫さんは眉根を寄せます。

「……、どうせ、音楽室でも探してるんじゃないの?」

やっと吐き出されたのは、そんなこと。
強がっているのは明らかでしたが、先輩二人が顔を見合わせたのは違う理由だったということに真姫さんは気付かないでしょう。
ついには小さく笑う絵里さんたちに、真姫さんは精一杯の睨みを利かせます。

「何よ」
「別に?」

返ってきたのは、真姫さんの口癖。
意に介していません。この二人に歯向かうのはそれ相応の対価が必要です。
だからこそ、真姫さんはわざとらしく溜息を吐き出すだけに止めました。これ以上言ったら何にを対価にされるか解りません。

「逃げないの?」
「希ならともかく、絵里から逃げ切れるほど足速くない。それに言ったでしょう? 無駄に疲れたくないの」

席を立って背後の棚へと本を戻す真姫さんには、逃げる素振りもありません。
絵里さんは、隣にいる鬼を一瞬見てから首を傾げます。罰ゲームがどんなものになるかわからないわけではないでしょうに。

「捕まったら、罰ゲームよ?」
「全員捕まえれば、ジュース一本で済むじゃない」
「凄い自信ね」
「この私が鬼に加わるのよ?」

肩をすくめた先輩たちに真姫さんは軽く腕を持ち上げます。
示された掌。

「ほら」
「ほんなら遠慮なく。たーっち」

合わせた掌。
それだけでは、終わらなかったようです。

「……ちょっと、何で握るの」
「真姫ちゃん指長いなぁ」

絡んだ指を見て、触れて、真姫さんの頬の熱は集まるばかりです。

「離しなさいよ」
「捕獲捕獲ぅ」
「逃げないわよ」
「じゃあ、連行していきましょうか」
「ちょっと!」
「真姫、図書室では静かにね」
「っ!! っ!!」
「あっちの鬼の首尾はどやろな」

絵里さんに威嚇する真姫さんと手を繋いだまま、希さんは図書室を後にしました。







敵わない先輩たち。

鬼、四人。子、五人。








放課後の喧騒が不思議と聞こえないその静かな廊下。
対峙するのは、鬼と、子。

「やっと見つけたわよ」

鬼は、子に向かい、鋭い視線を以ってして告げました。
子が鬼に気付いた時には、その距離は五メートルに詰められていたのです。
その手際のよさよりも、もっと違う意味でことりさんは丸い目を鬼に向けていました。
鬼、にこさんは顔をしかめます。

「何よ」
「真姫ちゃん探してるんじゃないかなって思ってたから」
「あの子が私に、はいそうですか、って捕まるような子に見える?」
「あはは……」

ことりさんの苦笑いが質問の答えです。
にこさんは腕を組み、溜息混じりに言います。

「大方、面倒くさくて図書室で本でも読んでるんでしょうから、希たちに迎えにいかせたわよ」

ほっとくと拗ねるし、変に凹むし。そう付け足すことはありませんでした。
それを聞いて濃くなった苦笑を、ことりさんは真剣なものに戻します。

「でもね、にこちゃん。私も捕まるわけにはいかないの」

ことりさんの脳裏に蘇る、死屍累々。その中心に立つ、手をわきわきさせた人物。
トラウマです。抉るようにトラウマに登録された映像です。

「やっと、って言ったでしょ。私の狙いは最初からあんたよ、南ことり。全員を捕まえるためには、あんたが必要なわけ」

にこさんは、口角を上げました。

「足の速さで勝とうとは思ってないし、確実性を取るわ」

カーディガンのポケットから取り出したそれを、指先に挟んで、見せつけるように揺らします。
しかして、それは。

「ユニット別の練習風景を激写したデータ」

ことりさんの様子を見ながら、にこさんは口にします。
己が持つ、対ことりさん用の最大火力攻撃。

「作詞担当」

目が見開かれたのを確認して、さらに追撃。

「だけとは言わないわ、リーダーも込みよ」

唇が戦慄くのを、見ました。
ぶるぶると震えはじめることりさん。
そんな。だめよことり。だめなの。でも。そんな。でも。でもでも。わたしがもってない。しゃしん。
ちっちゃく何かを言っていますが、よく聞き取れません。

「欲しいのなら、私の手を取りなさい」

メモリーを持つ方とは別の手を差しのべながら、にこさんは勝利を確信していました。
この攻撃が通用する人は限られています。そして、この攻撃の耐性が一番低いと判断した相手、それがことりさんだったのです。
もちろん被写体には許可を取ってません。ばれたら没収されます。生徒会長には没収されました。
時計の長い秒針が一周するくらい、ことりさんはぶるぶるしていました。
そうして、不意にその震えが止まり、口元を覆っていた手が外されれば、そこには妙な、笑顔。
にこさんに、緊張が走ります。

「ねぇ、にこちゃん」
「何よ」
「作曲担当のはあるのかなー、なんて」

なんということでしょうか。
ここでまさかの追加をおねだり。さすがことりさんです。小首を傾げたその姿。どこかの誰かだったら撃沈です。

「ないわ」
「えっ」

ですがにこさんは鉄壁でした。
真顔で即答です。耳を疑うことりさんは、ただにこさんを見詰める他ありません。

「ないの」
「……」
「ないっつってんでしょ」

見詰めることやはり一分。
同じ答えを重ねていたにこさんの耳が、なんとなくカーディガンと同じ色になってきました。
ああ。ことりさんはなんとなく、察しました。
その視線に耐えられなかったのか、にこさんが吠えます。

「早く捕まりなさいよ!!」

妥協も大切です。








ねんがんの めもりーを てにいれたぞ。

鬼、五人。子、四人。

形勢逆転。









頭数の増えた鬼たちは、作戦会議をすべく校舎の一画に集まっていました。
制限時間は確実に残りを少なくしています。
にこさんはやってきた赤い頭に向けて、甘ったるい声を作りだします。

「真姫ちゃんってば捕まっちゃったのぉー?」
「べ、別に逃げるのがめんどくさかっただけよ!」

不貞腐れたようにそっぽを向く真姫さんを見てにやにやと口元を緩ませていましたが、その耳がたった今のからかいのせいにしては妙に髪色に近いことに気付きました。
視線は真姫さんから、真姫さんの隣にいる人へ。

「……希、何かした?」
「わあ、うちだけにピンポイントで聞いてくるん?」
「違うわけ?」
「違わんけど」
「やっぱそうじゃない!」

騒がしくなる隣を気にすることなく、絵里さんはにこさんと共にやってきた人に微笑みを見せます。

「ことりも捕まったのね」
「うんっ」
「……やけに嬉しそうだけど、どうしたの?」
「えへへ、内緒」

密約は他言無用です。
訝しむ絵里さんでしたがそれ以上問いかけることもなく、希さんへの追及を諦めたにこさんもまた、気を取り直して腕を組みます。

「じゃあ、あいつを攻め落としに行くわよ」
「えっ、誰?」

ことりさんからにこさんへと疑問の視線の向きを変えた絵里さん。
呆れに表情を歪ませて、にこさんは言います。

「専用兵器が手に入ったのに使わないわけないでしょ」

専用とはこれ如何に。
ぞろぞろとやってきたのは弓道場の近く。そこに、その人は居ました。
複数の足音を聞くとゆっくりと振り返ります。

「来ましたね……」

真剣な瞳は、まるで的を射る時のもの。
にこさんを筆頭とした鬼たちを見るや否や、半身を引いて逃走の態勢へと移行。
苦しさを滲ませたその表情で、言います。

「しかし、私は捕まるわけにはいきません……それが、ことりの仇となるのです……!!」

痛々しい声でした。

「仇……?」
「えっ、何、どうしたの、仇……?」
「たぶん、また色々と頭の中で展開されたんでしょ……」

何言ってんの。
鬼たちの心が一致した瞬間でした。
どうやら海未さんの脳内では、ことりさんが子鬼に追加されたと通知を受けた時点で色々と羽ばたいてしまったようです。大きな強い翼で。
くっと涙を飲んだかのように、海未さんは一度顔を伏せましたが、すぐに上げられた視線と、びしりと突き付けられた指先。

「絵里だけで私を捕まえられると思ったら、それは間違いですよ!」

海未さんの前に居る中で、足の速さという点で勝負できるのはおそらく一人だけでしょう。
それを海未さんはわかっているのです。だからこその、この発言でした。
絵里さんを軸にした追跡からの捕獲。作戦を、そう踏んでいたのです。
だから。

「ことり。頼んだわ」

にこさんのこの一言に、海未さんは固まりました。
わざとなのでしょう。今まで建物の陰に隠れていたことりさんがゆっくりと姿を現したのです。
海未さんは気付かなかったのです。子鬼に追加されたというのならば、ここにいない理由はありません。なのに、ここにことりさんが居ないと、脳内で完結してしまったのです。羽ばたいていたのです。敵はそれ以外の鬼。そう決定されていたのです。

「海未ちゃん」
「こ、ことり……」

動揺は目に見えて伝わってきました。
ことりさんが一歩踏み出すと同時に、海未さんは一歩下がります。
保たれたままの距離に、ことりさんは言います。

「海未ちゃん……」

面白いほどの反応でした。
ことりさんの、何と表現すべきでしょうか、雨に濡れた子猫のか細い鳴き声と言いましょうか、それに属する声色。
鼓膜に届いたそれがどんな作用を働いたのか、海未さんは脂汗すら浮かべていました。
ことりさんが一歩進み、海未さんが半歩下がります。

「ことりから、離れちゃうの……?」

何かを言いたいのでしょう。でも紡がれる言葉はなく首を横に振る海未さん。
ことりさんの眉が、絶妙に下がります。

「逃げちゃやだよ、海未ちゃん……」

ここでおさらいしましょう。
鬼が子を子鬼にするためには、接触が必要です。
それこそ、接触はどこでもいいのです。
どこでも、いいのです。

「じゃ、私たち校舎んとこいるから」

清々しいほどあっさりと、ことりさん以外の鬼はその場から背を向けました。
数分後。

「海未ちゃん、ゲットしたよ」
「……」

鬼が集まるそこに、煌めく笑顔のことりさん、繋がれた手に引き摺られるように連行された海未さんがいました。

「逃げた時の保険で人数揃えてきたけど、ことりだけでよかったわねこれ」

口元を抑えて俯いた海未さんを見て、にこさんは淡々と言いました。
目標は専用兵器に撃墜されたようです。








効果は抜群だ。

鬼、六人。子、三人。









子を残り三人とし、鬼たちは二人一組に分散して捜索を開始することにしました。
制限時間が差し迫る中、果たして、廊下の先に見知った背中を二つ見つけるに至ります。

「いた! 花陽!! 凛!!」

にこさんは、叫びました。
指を突きつけて、叫びました。
五十メートルは先に居るのに、叫んじゃいました。

「にゃ!?」
「に、逃げなきゃ!!」

そりゃあ、逃げます。
全力疾走です。
五十メートルの差が、さらに広がります。
慌てて駆け出す鬼二人。

「何で叫ぶのよ!? 逃げるじゃない!」
「わ、わざとよ! ハンデ!!」
「その足の速さでハンデっていう!?」

真姫さんの悪態ににこさんが強がりを返し、走りながらも器用に口論しながらの追跡が開始されました。
幸運なことに、先生に見咎められることなく、その逃亡と追走は終わりを告げることとなります。
いい音を立てて、廊下の壁に片手が突かれました。

「手間。掛けさせるんじゃ。ないわよ。花陽……ッ」
「ヒィッ!!」

花陽さんを壁際に追い込んだ真姫さんは、息も絶え絶えです。なんてったって全力疾走ですから。
背中に壁を付け、見上げたその人に、逆光で陰りを得たその表情に、花陽さんの小さな悲鳴が上がります。

「真姫ちゃん、顔、顔」
「何」
「何でもないでぇーす」

ぎっと視線を向けられた、遅れて追い付いたにこさんもまたいつもの笑顔を作り出しちゃうくらいには、真姫さんの表情はちょっと見せられないものでした。
息を整えるために一度深く深呼吸をした真姫さんが、改めて花陽さんを捕獲しようとすると。

「待てー!! かよちんから離れろー!!」
「り、凛ちゃん!」

後ろを走っていた花陽さんが居なくなったことに気付いて戻って来たのでしょう。廊下の先には、凛さんが居ました。
こっちは息切れ一つしていません。体力の差は歴然です。ついでに、足の速さも。
にこさんがこんな行動に出たのも、凛さんとの圧倒的な走力の違いを理解しているから、そしてもう正直走る元気がないからでした。

「凛。先輩命令よ。こっち来なさい」

毅然とした態度と声で、それは凛さんに届きました。

「うわぁ、こう言う時だけ先輩って凄く薄っぺらいにゃ……」
「るっさい!」

そして砕かれました。
微妙な顔をした凛さんに、ついでに吐かれた感想に、にこさんの怒号が響きます。
まったく相手にされていません。
凛さんもまた、不敵に口元を緩めます。

「ふっふっふ、凛も賢くなったにゃ」

ゆっくりと動く、手。

「かよちんを見逃してくれるなら、これをあげよう……」

印篭の様に掲げられたそこには。

「自習時間激写ベスト集!!」

凛さんの携帯がありました。
自習時間激写ベスト集。凛さんの携帯に眠る写真の一部です。
廊下を駆け抜けたその発言は、この場の時を止めたのです。
真姫さんの呆れはこの日一番のものになっていました。何をしているのかと。何てったって自習時間。一年生組の、自分たちの写真です。そんなもので釣られるはずがないでしょうと。
そう思ってなんとなく隣を見ますが。

「……じしゅうじかん……」

真顔がそこに在りました。
この日一番の真顔でした。いえ、ここ数週間で一番の真顔かもしれません。
そのくらい、真剣な顔のにこさんが、そこに居ました。
視線の先は、凛さんの携帯でした。
生温い空気が、流れました。
そして、時は動きだします。

「違うの」

真姫さんの視線に気付いたにこさんは、否定から入りました。

「違う。違うって。ただ、先輩として、やっぱり脅して捕まえるのはどうかなって思って、そう、これは先輩としての余裕ってやつを見せつけるためなのよ。そうなのよ。やっぱり足速いやつから捕まえた方が達成感があるっていうか。そういう」

真姫さんから精一杯顔を背けてそう言いました。覗く耳の色を気にしたらいけません。
弁解の余地は、おそらくありませんでした。
未だ延々と続く言い訳に、真姫さんは動きます。

「「あー!!」」

状況を呑み込めずに固まっていた花陽さんを、その腕に羽交い締めの様に収めたのです。
この時点で花陽さんの子鬼追加は確定しました。
真姫さんは廊下の先からはともかく、隣からの絶叫は気にしないことにしました。

「凛。花陽のほっぺを引っ張られたくなかったら、降伏しなさい」
「ひゃあ!?」

まんま悪役でした。
人質が花陽さん自身ではなく花陽さんのほっぺと言うあたりが間が抜けていますが、絵面だけみたら完璧に悪役です。
ヒーローは慄いて、叫びます。

「かっ、かよちんのふにふにほっぺを人質に取るなんて……!! 真姫ちゃんの鬼!!」
「ええ、鬼よ。早くしなさい」

言葉通りです。
引き下がる気を見せない真姫さんの袖をにこさんが引っ張ります。

「ちょ、ちょっと!」
「何よ」
「人質を取るなんてそんなことしていいわけ!?」
「ことりをデータで買収したのどこの誰」
「!?」

ばれてました。
これはもう、何も言えません。
言葉に詰まったにこさんから、また視線を前へ。
悪役はヒロインのほっぺを人差し指でぷにぷにしながら、ヒーローに宣告します。

「凛! 早くしないとほっぺが痛々しく真っ赤になるわよ!!」
「ぅわあああああ!!! 真姫ちゃんの赤鬼ぃい!!!」
「赤鬼って何よ!!」

結局。ヒーローは、ヒロインのほっぺのために悪の道に進みました。







鬼、八人。子、一人。

カウントダウン。







たまたま出くわした鬼二組は、今しがた届いた子鬼追加のお知らせを見ていました。
捕まった子は七人。残るは。

「さて、あとはリーダーだけなわけだけど」
「どこにいるんやろ」

あと、一人。

「予想は付きます」
「そうだね」

先輩二人の疑問の視線に、幼馴染二人の言葉は続きます。

「制限時間まで隠れ通すなんて性格じゃありませんし、どこに鬼が潜んでいるかもわからない校舎内にもあまり居たくはない……」
「それならすぐ逃げられるようにどこから来ても鬼がわかる場所! って考えると……」

重なる、言葉。

「「遮蔽物のないグラウンド」」

制限時間、残り十分。
終結した鬼たちの視線の先。
そこには、残る子が、一人。

「穂乃果ちゃん見っけー!!!」

凛さんの声が、青空のもとに響きます。
あれだけいた逃走側が、もう己一人だけ。その事実は、穂乃果さんとある程度の距離を保った位置に集う鬼たちを見ることによって突き付けられていました。
にこさんが、一歩前に出ます。

「さあ! 穂乃果! 絵里ちゃんがあんなことやこんなことになる前に捕まりなさい!!」

その傍らには何故か後ろ手に、にこさんの手によって拘束された絵里さんが居ました。
本人は苦笑いです。ちょっと後ろに手回して。そう言われてこれです。

「にこちゃん、色んな意味で二番煎じにゃ」
「黙りなさい」

凛さんの真顔のつっこみに、にこさんは真顔のまま返しました。
しかし、その一番煎じを知らない穂乃果さんに与えた衝撃は、なかなかのものだったようです。

「絵里ちゃん……!」
「そ、そんな泣きそうな顔しないで穂乃果」

絵里さんがちょっとうろたえるくらいには、捨てられた子犬じみた目をしていました。
これは少々堪りません。主に絵里さんの良心とか色々が。
そんな絵里さんを視線で牽制しながら、にこさんは小声で指示を出します。

「ちょっと絵里ちゃん、もっと捕らわれのヒロインっぽく」
「ヒロイン……?」

首を傾げた絵里さんが黙考すること数秒。
ばっと穂乃果さんに向けられた表情は、悲痛なものでした。そうして、込められた感情は、声と成り発せられます。

「……穂乃果っ! 逃げて……!! 私のことは良いから逃げてぇっ!!」
「違う!!」

速攻でにこさんのダメ出しが入りました。
助けて、とかそういうのを期待していたようですが全く逆の言葉が飛び出たのです。
きょとんとした表情を見上げて、捕まえなきゃいけないのに逃してどうすんのよ、と続けようとして。

「わかったよ絵里ちゃん……っ!! でも、私、絶対に後で助けに戻るからっ!!!」
「そっちもぉ!!」

同じく悲痛に濡れた穂乃果さんの声に、同じく声を張り上げました。
言うや否や走り出した穂乃果さん。それを追って駆け出す人と、駆け出した人に引っ張られるように走り出す数人、溜息をつく数人。
その原因を作った人とそれを咎める人に、傍観していた希さんは微笑みます。

「えりちのそういうお茶目なとこ嫌いやないよ」
「お茶目発動のタイミング相変わらずおかしいでしょ!」

同級生はの反応は、まるで正反対でした。
絵里さんは、やはり首を傾げていました。

「亜里沙がしてたゲームの台詞だったんだけど、ダメだったかしら」
「台詞チョイスがちょっとなぁ」
「ああもうこの役立たず!」

二度目の怒号をぶつけて、ついでとばかりに希さんとことりさんを引っ張る様ににこさんもまた走りだします。
そうして、海未さんと絵里さんがこの場に残りました。
視界には、何やら騒ぎながらちょこまかと逃げる穂乃果さんと、やはり騒ぎながらそれを追いかける鬼たち。

「追い込み漁してるみたいですね」
「そうね……」

グラウンドを使用している部活も今は休憩中なのか、運よく邪魔にはならない時間帯。
そこで行われる逃走劇は、どう足掻いても多勢に無勢。捕まるのは、時間の問題でしょう。だからこそ、海未さんも絵里さんも、走り出すことはしなかったのです。
包囲網は徐々に狭められ、逃げ道を探した穂乃果さんが駆けた方に居たのは、希さんでした。
あの、手の動きでした。
それを見た穂乃果さんの表情はうかがい知ることはできませんでしたが、急制動をかけて方向を転換。

「あ、こっちに来ますね」

さらに勢いを増して駆け出したのは、二人がいる方向でした。
追う鬼たちもまた、こちらに向かってきます。
それなりの距離。真っ直ぐに、全速力で、穂乃果さんは駆けてきます。
数秒経って、絵里さんが口元を引きつらせました。

「待って、勢い落ちてないわよね、あれ」
「そ、そうですね」

海未さんもまた、状況を把握したのでしょう。
全くと言っていいほど、速度を緩めることなく、穂乃果さんはこちらに向かってきていました。
鬼の方に、向かってきていました。
あ、これまずい。そう思った時には、遅かったのです。

「絵里ちゃん助けてえええええええええええっ!!!」
「ちょっ」

ハグ。というより、ほぼ突進です。
絵里さんの腕の中に、涙目の穂乃果さんが飛びこみます。
受け止める準備が十分出来ず、勢いを殺し切ることも出来ず、絵里さんの身体は当然、後ろに倒れて大惨事。

「絵里、平気ですか?」
「……あー、うん、ありがと、海未」

には、ならず。背後で支えてくれた海未さんにより、事なきを得ました。
心配そうに下げられた眉に苦笑いを返して、絵里さんは痛みさえ感じる勢いで飛び込んできた穂乃果さんに視線を落とします。

「……穂乃果」
「わしわしやだぁぁあああ……っ!」
「わかったから、ちょっと、苦しいんですけど、穂乃果?」
「ぅううううぅぅやぁだぁあああ……!!」

胸元に顔を埋めて涙声で主張し、助けを求めて絵里さんに力いっぱいに抱き付いているその姿。
絵里さんは苦笑いを濃くして、抱きついてきたその頭に掌を乗せました。

「……あー。はいはい、よしよし、怖かったわねー、もう大丈夫よー……」

慣れた手つきで、その髪を撫でます。
戻ってきたことは戻ってきましたが、助けに来たかと言えば疑問しか浮かばない帰還でした。
支えたままの海未さんを始めとして、同じように苦笑いを浮かべる人、呆れる人、ニヤニヤする人、様々いる中で、希さんは携帯を取り出して時間を確認します。
一つ頷き、笑顔。

「ゲームセットやん」

制限時間一分前。
鬼の完全勝利に、終わりました。






一番得したの、だーれだ。






「明日は何しようか! ケイドロとか!」
「却下」
「えー?」



矢澤パイセンに「この役立たず!」って言わせたかったんです。

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