地味に困る



他の部員が各々の作業をしに出払っていて、部室には二人だけ。

「手がかさかさする」

パイプ椅子の背を鳴らして、両手を掲げた穂乃果さんが言った一言。

「手入れしなきゃだめよー?」

その声に書類から視線を上げて、絵里さんが鞄から取り出したのはハンドクリーム。

「これ使っていいから」
「ありがとう絵里ちゃん!」

そうして。
ハンドクリームを真剣に塗る人と、また書類に目を落とす人。













無心とは少し違う。
一つのことに、それこそ単純作業だからこそのめり込んでしまうもの。
掌に伸ばした軟膏状のそれを指の腹を使って広げていきます。
爪の際、指の間、水かきと呼ばれるところ、指の根元、関節を曲げて、甲。
最後に全体に馴染ませるように擦り合わせて。

「よし!」

妙な達成感。
両手が蛍光灯越しに、薄く光沢を得ます。
ちょっと大目に塗ってしまったのはらしいといいますか。
穂乃果さんはまた両手を広げて同じように掲げ、ご満悦。
そこで、電子音。
机の上に置いてある携帯から鳴り響くのはちゅんちゅんちゅんちゅんと小鳥の囀り。発信者は見なくてもわかります。
そういえばこの前凛ちゃんと着信音弄って遊んでたなー。と思いながら携帯に手を伸ばした穂乃果さんは、はたと気づきます。
ちゅんちゅんちゅんちゅん。
一方。まさか室内で聞くとは思ってはなかった鳥類の鳴き声に少し動揺したものの、それが着信音だと知るとまた視線を携帯から書類に戻していた絵里さん。
しかしすぐに鳴き止むと思っていた囀りは一向にして続いていて、再び顔を上げた先。
そこには、真顔の穂乃果さん。携帯を凝視していたその瞳が、絵里さんを見ます。絵里さんの肩がびくつくくらいのキレの良さでした。

「絵里ちゃん大変だよ!」
「ど、どうしたの?」

何か大事なことかしら。絵里さんが固唾を呑み込みました。
真剣な顔のまま、穂乃果さんは言います。

「手がべたべたして携帯に触れない!!」
「……」

これでもかってほど真顔でした。
ちゅんちゅんちゅんちゅん。
瞼を下ろし眉間を抑えて三秒ほど何かと交戦していた絵里さんは、立ちあがって穂乃果さんの傍までやってきます。

「私が出てもいい?」

そろそろ囀るのにも疲れてきたであろう、小鳥を休ませるためです。

「あ、そっか。絵里ちゃん頭良い!」

笑顔でそう言う穂乃果さんに、こめかみを指で軽く叩きながら絵里さんは穂乃果さんの携帯を手に取ります。
通話のスライド。

「もしもし、ことり? ええ、ごめんなさい、ちょっと穂乃果、手が離せなくてっていうか、触れなくてっていうか……」

無意味に指をわきわきと動かしながら手を見詰める穂乃果さんを眼下に収めながら、ため息混じりに絵里さんは通話相手にそう漏らします。
未だ真顔の穂乃果さんの視界には、実は携帯だけがあったわけではありません。

「どうしよう絵里ちゃん……何も触れない……けどお菓子が食べたいよ……!」

机の上には、個別包装された小さなパウンドケーキがありました。
空の包装がすでに二個ほど穂乃果さんの前にはありました。食べてました。食べてる途中で手がかさついてることに気付きました。
何も今じゃなくても渇くまで待てばいいでしょ。
絵里さんは通話を続けながら声に出さず思いました。それよりも今は衣装についての会話が重要なのです。
それが、仇となったのでしょう。止めなければ、ならなかったのでしょう。
真顔で己の手とお菓子を行き来していた穂乃果さんの視線が絵里さんの手に留まり、じっと見詰めていたのです。
煌めいた笑顔が浮かんだことに気付いた時には、もう遅かったのです。

「絵里ちゃんに塗ればいいんだ!」

空いた片手が、捕らわれました。

「えっ!?」

触れた体温。やけにあたたかいと感じるそれに驚いて見れば、そこには自身の手を絵里さんの手に擦りつける穂乃果さん。
付け過ぎたのならおすそ分けすればいいじゃない。

「ちょっと、穂乃果、くすぐったいからやめ……!! えっ、ごめん、何でもないの、こっちは特にいる物ないから……」

ただ、やられた側にとったらくすぐったくてしょうがないものでした。
両手でしっかり捕まっているため離れることは出来ず、しかも電話中なので片手で引き剥がすことも出来ません。通話相手に訝しがられても仕方のないことでしょう。
単に手を繋ぐのとは違う接触です。指を絡ませ、擦りつけて、接触面積がいつもより過分に多いのです。
穂乃果さん真剣です。真剣になればなるほど周りが見えなくなります。

「私の手が早く乾いて、絵里ちゃんの手ももっとすべすべになる……完璧な作戦!」

しかもちょっとどや顔でした。本人にとったらベストアンサーなのです。
穂乃果さんは絵里さんが電話中ってことをもう気にしちゃいません。むしろ覚えていません。

「んっ、もう、そんなところまでいいから! ……な、何でもないの、終わったのなら戻ってきて」

手首まで侵攻してきた穂乃果さんの手に眉根を寄せて、くすぐったさに首をすくめる絵里さん。
侵攻者は、わー、絵里ちゃん指長いねー、などともはや触ることに目的がすり変わっていました。

「あっ、ううん、本当に大丈夫だから、うん。ほ、穂乃果、ほんと拭いてもいいからやめなさいってば!」

そうして、通話は切られました。
携帯を机の上に置くのを見て、穂乃果さんは絵里さんに笑顔を向けます。
やっと電話が終わったというより、もう片方の手が空いたという認識でした。

「絵里ちゃん! そっちの手も!」
「だからやめなさいって言ってるでしょ!!」
「ふぎゃ!」

鼻が摘ままれました。

















通話終了の文字をじっと見詰めて、バックライトが消えるまで見詰めて、消えた液晶に映る自分の顔を見詰めて。
絵里さんと通話していたその人は、無言でした。

「……」
「他にいる物あった? ないなら部室に戻りましょ」

採寸に必要な道具が入った紙袋を持って振り向いた真姫さんが見たのは。

「だめだよ」

真顔のことりさんでした。
ゆっくりと下ろされる握りしめられた携帯。

「今部室に行っちゃだめなの」
「何で?」

至極真っ当な疑問です。
採寸用具を持って帰るのが課せられた任務なのです。
けれど、この先輩は帰ってはいけないといいます。
その問いに、ことりさんは何故か頬をオカメインコの様に染めました。

「真姫ちゃんにはまだ早いよ……」
「はあ? 何が?」

重ねられた問いに、身体をよろつかせて、口元を掌で覆うことりさん。

「こ、ことりに説明しろって……!? 真姫ちゃんに教えちゃうって……そ、そんな……!! ことりがあんなことやそんなことを……!?」

あ、これ会話成り立ってないな。っていうか意思疎通無理だな。
真姫さんがそう結論付けるまで一秒もかかりませんでした。
取り出した携帯。スクロールとタッチは数度。
コール。

「……にこちゃん? ちょっと今そういう挨拶いいから、近くに海未いる? いいから、そういうのいいから、海未にことりの暴走止める方法聞いてくれない? もしくは被服室に派遣して、ていうか海未に変わって」

救援を要請。



数人で別行動する時は、大抵ストッパー役が一人は混じる様に分けられる。
ただしストッパー役と特定のあいどるだと悪化するので選別が必要。
そんな感じのあいどるたち。
園田さんに電話かければいいじゃないですか西木野さんって書いた後で思ったけどいやちょっと自分も混乱してた西木野さんは矢澤さんにかけるなって一人で納得したのでいいことにする。

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