よしよし



早々に昼食を済ませて、部室へと忘れ物を取りに来た絵里さんが見つけたもの。

「……穂乃果?」
「絵里ちゃん……っ」

シャーペンを握りしめて泣きそうな穂乃果さんでした。









隣の席に付き、こめかみを指先で触れて、頭の中を整理するように瞼を下ろしている絵里さん。
ひとつ、首肯。

「ことりが委員会。海未は弓道部。他の教えてくれそうなクラスメイトも何かしらの用事があった」
「うん」
「それで?」
「この通り」

穂乃果さんの前には数学の教科書。と、問@の問題文だけが記されたノート。
教室は誘惑と言う名のお菓子やら何やらが目に入るということで、集中するために選んだのは部室。
体よく誰もいなかったのですが、誰も居ないということは教えてくれる人もいないということ。
つまり、しょっぱなから躓いていました。
べしゃっと机に崩れ落ちた穂乃果さん。数学は、数学はだめなんだよ。だって数学だよ、数学。数字だよ。どうしよう。わかんないよ。パン食べたい。いやむしろお肉。ステーキ。ぶつぶつと呟いています。色々とだめです。
四限に数学の小テストがあり、あまりに点数がアレだと、宿題が増えるというミッションがあるらしい。
穂乃果さんから聞いた情報を纏めると、以上でした。
時計を見て、予鈴との時間を逆算し、広げられた教科書の問題を見て、軽く計算式を思い浮かべて、さらに項垂れる穂乃果さんを見て。

「私でよければ教えようか?」
「いいの!?」

素晴らしい笑顔と共にすぐさま返ってきた確認の声に、絵里さんは苦笑いを浮かべます。

「予鈴まででどの程度教えられるかわからないけどね」













「絵里ちゃん先生、お願いします!」
「はい、お願いします」

と、いうわけで即席個別教師。絢瀬先生の出来あがりです。
とは言っても、眼鏡かけてるとか教鞭持ってるとか、そんなことはありませんけれど。
小テストは今開かれている頁の問題と同じような、つまり同じ公式を用いて解く問題が出る模様。
つまりこの頁の問題が上手く解ければ、それなりの点数を取れるということです。
シャーペンを一度ノックして芯を出した先生は、生徒に訪ねます。

「それで、どこからわからないの?」
「最初から」
「……」
「……」

沈黙。昼休みの喧騒が妙に遠くに聞こえる静寂が流れました。
真顔の絵里さん。笑顔の穂乃果さん。

「穂乃果、三角関数の符号、って覚えてる?」
「ふご……おっ、……ぼえてる、よ?」

絵里さんの目に口元を引きつらせながら穂乃果さんは答えます。
文末の疑問符には気付かないふりをしてあげてください。
にこりと、綺麗に絵里さんは笑顔を浮かべました。

「じゃあ、第一から第四象限、それぞれ書いてみてごらん?」

ノートを指して、しばし。
笑顔を崩さない絵里さんと、持つシャーペンがぶるぶると震える穂乃果さん。
勝敗は、明らか。
大変申し訳ございません。頭を下げるまでに時間はかかりませんでした。

「そこからね」
「はい……」

仕方ないわね、という言葉がぴったりな表情で、項垂れる頭を撫でて絵里さんは定理が乗っている頁を開きます。
符号の説明を聞きながら必死に書き取る穂乃果さんを横目に、違う表を示します。

「sinθやcosθとかは覚えてるのね?」
「この前海未ちゃん先生とことりちゃん先生に忘れてはいけない所に叩き込まれました……」
「よろしい」












ほぼ白紙だったノートは、次第に数式とグラフに埋められてきていました。
ミミズが這ったような少し歪な流線。時折それに混じって赤字の迷いない流線が混じっているのはご愛嬌。
最初の問題が載ったページへと戻ってきて、各問題を解く作業へと移っていました。

「そう。そこまでは大丈夫ね」
「うん……うん」
「……穂乃果、目の焦点あってないわよ」

とんとんとシャーペンの先がノートをつつきます。
既に若干のキャパオーバーを迎えていることは容易に想像が出来ました。
けれど問題は更に余計な数字を足してきたりするわけです。
その数字の意味が、本当に何なのかわからなくなるものなのです。
こんなの付け足さないでよ。と声を大にして叫びたいほどなのです。
頭から煙が出そうな穂乃果さんは、もう何が何だかわからない状態なのです。

「どうして+なのに下がるの?」
「下がるって……対応表書きましょうか、そっちの方が解りやすいと思うわ」

だからこそ増える質問。というより、なにこれ、という純粋な疑問。なにこいつ。何でここにいるの。どっちかと言えば、そう言う疑問。

「何で上に動くの?」
「上じゃなくてy軸ね」

絵里さんの根気強さは、割と高い方です。














パイプ椅子の背がギシリと音を立てました。
軽く伸びをして、背筋を弛緩させた絵里さんは教科書やノートを纏める穂乃果さんに首を傾げます。

「大丈夫?」
「な、なんとか!」

脂汗が浮かんでいるのは気のせいでしょうか。
力強く頷いた穂乃果さんは、ふらつきながら頭を抱えます。

「あ、頭振ると零れちゃう……」
「ああほら、零さない零さない」

苦笑いで、零れたらしい数字を戻す様に頭を撫でる絵里さん。
うぐぐと唸る穂乃果さんから、自身の忘れものであったトートバックに視線を移して、その中に手を入れます。

「穂乃果」
「うん?」

指先でうにょんうにょん流線を描いていた穂乃果さんが声の方を向けば。

「あーん」

微笑んだ絵里さんと、眼前に一口サイズのチョコレート。
絵里さんとチョコを数度行き来した瞳は、きらきらと輝いて、すぐにぱくりとチョコをその口に収めます。
ご褒美と、激励。と言ったところでしょうか。

「頑張ってね」
「うんっ、ありがとう絵里ちゃん!」

予鈴が、鳴り響きました。

















放課後。

「絵里ちゃん絵里ちゃん絵里ちゃん絵里ちゃん!!」

ぶち破らん限りに突破された部室の扉から現れたのは穂乃果さんでした。
何事かと驚く皆を気にすることなく、穂乃果さんは目的の人物の元へ一直線。
丸くなった空色の前に付きつけられる、プリント。

「見て!!」

黒だけではなく赤くも彩られたそれ。右上に燦然と輝く数字。
73点。
快挙です。どのくらい快挙かと言うと、友人たちが二度見したくらいの快挙です。
それをわかっている絵里さんは、穂乃果さんに負けず劣らず笑顔を浮かべます。

「よくやったわ穂乃果!!」
「えへへー、頑張ったよ!」
「頑張ったわね!」

くしゃくしゃと盛大に頭を撫でる絵里さんに、それを嬉しそうに受け入れている穂乃果さん。
確認しますが、小テストです。定期テストじゃありません。
それこそ一カ月に何回かある、小テストです。
しかし喜び方は盛大でした。
きゃっきゃしている二人を、若干遠巻きに見守る部員たち。

「何かにゃー、あれ」
「絵里ちゃんに勉強教わってたみたいで……」
「小テストの採点し終わってから、異様なテンションだったんです」
「えりち、嬉しそうやなぁ」
「えっ、絵里ちゃんの方が嬉しそうなの? 穂乃果ちゃんじゃなくて?」
「いや、アレは絵里ちゃんの方が嬉しそうでしょ……」
「さっきまでちょっと上の空だったんはこのせいなのね……」

今日も、割と平和です。



ねえねえうまくいったよ褒めて褒めて!!! よーしよしよしいい子ねいい子いい子!!! わあい!!!

そんな感じ。
よしよしは基本なのですよ。

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