絢瀬を挟んであちらとこちら 2



違和感があったのです。
確実にあったとも言えないくらい、微かな違和感。
ダンスも、歌も、いつも通り。笑顔も、いつも通り。声も、いつも通り。
なのに、違う気がしたのです。
それに気付いたのは、練習の休憩中、皆と笑い合っている時。
ふざけて後ろから抱き着いて、危ないでしょ、とそれでも笑いながら振り向いてくれた瞬間。
至近距離の空色が、目に焼き付きました。

「ん? どうしたの、穂乃果」

淡く笑ってくれるその表情が、何だか、少し、違う気がしたのです。














教室にひとり残り、新曲の歌詞を憶えていた穂乃果さんがふと時計を見れば練習が終わってから一時間以上経っていました。
そろそろ帰ろうと荷物をまとめ、昇降口まで来て、脳裏を過ぎ往く表情。
考え込んで数秒。
踵を返して、穂乃果さんが向かったのは三年生の教室棟。廊下ですら誰ともすれ違わず、クラス表記を見上げて恐る恐る覗きこんだ室内は、やはり無人でした。
次に向かったのは一般生徒があまり近寄らない場所。学校における生徒会役員が集う場所。小さく響いたノックに返ってくる返事はなく、扉も鍵がかかった状態。
鞄を持ちなおして、また昇降口へと向かおうとしていた足が止まります。しばらく廊下の一点を見詰めていた視線が上がり、靴音を立てて穂乃果さんは違う場所へと向かいました。
辿り着いた先は、部室でした。
アイドルグッズが所狭しと収納された棚。長机にパイプ椅子。見回したところで誰もいません。けれど穂乃果さんは室内へと歩を進めます。
部室の奥。もう一つの扉。
ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと開いた先。
そこには、探し人。

「穂乃果ちゃんやん」

そして、もう一人。
訪問者に気付いたその一人、長椅子に座っていた希さんが柔和な笑みを浮かべます。
希さんの方を見て、どこか呆然と立ちつくす穂乃果さんに、手招き。

「こっちおいでー」

そう言われても躊躇ってしまいます。けれど、探していた人はすぐそこに居るのです。
こちらに来ない穂乃果さんを見て、その視線が彷徨っていることを知りながら希さんは首を傾げます。

「どうしたん? 忘れ物?」
「ううん、そうじゃないんだけど……」
「自主練?」
「そうでもなくて……」

普段より声量を落とした穂乃果さんの、はっきりしない返答に希さんはさらに頬を緩めました。
その指に梳かれる、金色の髪。

「大丈夫。話してても、起きへんから」

穂乃果さんが先ほどから、この部屋に入った時からちらちらと瞳を向けている存在。近寄りたくても近寄れない理由。
希さんの膝枕で寝入る、絵里さんがそこにはいました。
不意に絵里さんは少しだけ身動ぎましたが、寝息は乱れることはありませんでした。
それにほっと息をついて、やっと近づいて、しゃがみこんだ穂乃果さん。
同じ目線に、絵里さんの寝顔。

「えりちの寝顔なんてレアもんなんよー……あっ、一回見てるか」
「ううん、絵里ちゃん私より早く起きてたから、たぶん、初めて」

解かれた金糸。下ろされた瞼。縁取る長い睫。すっと通った鼻梁。桜色の唇。微かな寝息。
ばれたら怒られるだろうな。それとも照れるかな。
間近で寝顔を見つめながら、穂乃果さんはもやもやと抱えていたことを口にします。

「絵里ちゃん、疲れてたの?」
「うーん、いつもよりちょっとだけ頑張ってたんよ」

だから、お昼寝。お夕寝かー。
笑いを含んでそう言う希さんを見上げて、穂乃果さんは窺います。

「希ちゃんは、気付いてた?」
「まぁね」

当たり前のように返された首肯に、先ほどとは違うもやもやが溜まっていくのを穂乃果さんは感じていました。
また、寝顔を見詰めて、独り言のように吐き出します。

「私、結局わからなかった」
「そりゃまぁ、穂乃果ちゃんより付き合い長いしなぁ」

一緒に居た時間が違う。それこそ、何倍も。それは事実。
穂乃果さんがやりきれない思いをどうすることも出来ずにいるのに気付いているのかいないのか、希さんは問います。

「結局、言うてたけど、気付いてはいたん?」
「違和感、みたいな、そんな感じはあったけど」

いつもの絵里さん。それに隠された、違和感の欠片。
それを見つけてはいても、拾うのが遅かった。穂乃果さんはそう思っていました。

「それで、やっぱり気になって戻ってきたの」
「ふぅん」

自身がそんなことを悩んでいたのに。今ここで。きっと希さんに促されたのでしょう。絵里さんは穏やかに寝息を立てています。
穂乃果さんが絵里さんを見詰める姿を、希さんは静かに見ていました。
見極めるような、瞳。
それに、穂乃果さんは気付いてはいません。
希さんは、口にします。

「えりちは、頑張り屋さんやからね」
「うん」
「でも、完璧なわけじゃない」
「うん」

穂乃果さんの返事に、少しも疑問が含まれていないことを、感じ取ります。
生徒会長。何でもそつなくこなす、完璧な人。
そう思っている人からは聞くことはない、返事。
ありのままの絵里さんを知らなければ、返ってこない声。

「絵里ちゃんも、言ってた。弱いところも、いっぱいあるって」

そして、今度は希さんが目を丸くします。
穂乃果さんの言葉。それは希さんに驚きを与えるに十分な意味を持っていました。

「えりちが?」
「うん。教えてくれたの」

あの絵里さんが。自分から。
瞬きをして、希さんの視線の先には、一つ年下の、女の子。
しばらく見詰めて、それでもその視線が絵里さんから外れることがないのを見て、自然に浮かんでくる笑み。

「穂乃果ちゃん」

呼び声でやっとこちらをその瞳に映した穂乃果さんに、希さんは言います。

「えりち、こういう性格やん?」

こういう。
それを説明することなく、穂乃果さんもそれを問うこともなく、続く言葉。

「せやから、ちょっと強引に休ませたり、足踏みしてたら引っ張ってあげたり、以外と手ぇ掛かるんよ」

首を傾げて、もう一度。

「掛かるんよ?」

今度は、問いかける形で。
希さんの笑顔に、含まれた意味。
穂乃果さんは、少しだけ拗ねた顔を見せました。

「いいもん」

今の自分より、目の前で眠る人のことをよく知っている人に向けて。
それでもいいのだと、言います。

「掛かっても、いいの。私、そうしてあげたい」

見詰めた先に、探し求めた人。

「絵里ちゃんが甘えられるように、してあげたい」

その寝顔を見つめて言う姿は、さながら宣言のよう。
くっくっと喉の奥で希さんは笑います。笑うしか、ないのです。

「甘えるときたかー」
「えっ?」
「何もないよ」

笑われる理由がわからない穂乃果さんが不思議そうな顔をしますが、希さんははぐらかします。
聞いても教えてくれそうにない希さんに、早々に気持ちを切り替え、穂乃果さんはもう一度絵里さんを見詰めました。

「うん」

一人、深く頷いて、勢いよく立ちあがる穂乃果さん。
握り拳と、真っ直ぐな瞳。

「私頑張るよ! 希ちゃん!」
「おー、頑張り、穂乃果ちゃん」

ぱちぱちと軽く手を叩いて、希さんは付け加えます。

「頑張りすぎて、穂乃果ちゃんが倒れんようにな?」
「うっ、はい……」

前科がありすぎるのです。
途端にしょぼくれる穂乃果さんに、希さんは一度時計を見てから言います。

「えりちが起きる前に帰り。寝顔見てたってばれたら照れて怒りだすから」
「うん、そうする」
「大丈夫。ばらしたりせぇへんから」
「……し、しないよね?」
「あははー」

一抹の不安を感じながら、穂乃果さんは鞄を持って扉へと向かいました。

「じゃあ、私帰るね」
「うん、ほんならまた明日ー」

ひらひら手を振る希さんと、未だ眠る絵里さんに背中を向けて、部室の扉を潜る穂乃果さん。
ここに来る前のもやもやとして気持ちは姿を変えて穂乃果さんの心にあります。

「よしっ!」

とりあえず、明日会ったら抱きつこう。
よくわからない決意を胸に、穂乃果さんは帰路につきました。
自身が去った後の部室での会話など、知る由がありませんでした。



本人が、本当を見せた人。

inserted by FC2 system