本日新海域ヘ出撃無シ
吾輩は提督である。
名前はあるが提督とか司令とか司令官としかほとんど呼ばれないので最近聞いてすらいない。
報告書を読む合間に、提督に語り継がれる恐怖の猫と言うものを思いだし、何気なくそんなことを考えた。
机に署名し終えた紙束を纏めて、一息つく。窓から降り注ぐお昼前の陽光はあたたかい。今日のお昼ご飯は何であろうか。
木を指の背で叩く音が四度。所属と名を告げる声に、どうぞと短くつげる。
「失礼いたします」
提督室に現れたのは我が艦隊の頭脳であった。
やあ、霧島さん。今日のお昼ご飯は何かわかるかな。
霧島さんはこちらを見て少し目を丸くした後、言った。
「さきほど数個のバケツ一杯の魚を軽巡が運んでいましたから、魚料理かと」
獲れたてか。素晴らしい。
気まぐれにしていた釣りを、興味深そうに眺めていた軽巡の数人に教えたらまたこの生徒たちが優秀で優秀で。食卓を飾る味方になっている。
「昼食の話をしに来たわけではありません」
ええ。そうでしょうとも。
眼鏡の弦を指で押し上げて、霧島さんは言う。
お説教モードと言うやつだ。どことなく居心地が悪くなるので、ぎゅうと身を軽く竦ませる。
「本日、新しい海域の攻略出撃がないのは何故でしょうか」
命令していないから。
「そう言う意味ではありません」
はい。
ああ、眉根を寄せてはいけないよ霧島さん。折角の美人が少しだけ近寄りがたくなってしまう。
ところで霧島さんって眼鏡を取ったら意外に幼い顔つきだと思うのだけれどどうだろう。ああ、見たことないか。今度お風呂で見るといい。金ぴか姉妹の二番目のお姉さんと比べるとよくわかるかもしれない。二番目のお姉さんは実は綺麗な大人っぽい美人さんだよ。黙ってて動かずにいれば。
「聞いていますか」
はい。
顔を上げると溜息をつかれた。
瞼を押し上げた瞳が何故と問うてくる。何故って。わかるでしょう。
「資材も足りないというわけではありませんし、察しかねます」
そうですか。
アイコンタクトは成功していたけれど以心伝心とまではいかなかったらしい。では正答。
うちの正規空母さんの内、三人が入渠中だからです。
「ですから、それが理解できないのです。あと三人、いるでしょう?」
これは失礼しました。
ではもっとわかりやすく言おう。
残りの三人の正規空母さんたちが、犬系だからです。
「……」
昨日の帰投後を見ただろう。
霧島さんは何も言わない。
掠っただけとはいえ長時間の入渠を必要とする正規空母たちが軒並み中破に近い小破。即撤退。慎重なくらいがちょうどいい。
作戦についてはこの提督をなじってくれても構わない。反省している。追い詰めるかのように物凄く怒られたのでもう勘弁してほしい。艦載機に手を掛けながらなんて、心臓に悪い。
「し、しかし……」
一人は黙ったままだけどドックに行こうか行かまいか近寄りがたいオーラを発しまくりで挙動不審。さっき駆逐艦たちが怖いからどうにかしてほしいって助けを求めに来たよ。大井さんにお願いしようとしたら舌打ちされたので鳳翔さんにお願いした。たぶん今頃ドックにいるんじゃないかな。
一人は三十分に一回はドックにお見舞い。妖精さんがちょっとうるさくて邪魔って言ってきたから一時間に一回にしなさいって言ったら物凄くへこんでしまってとても悪いことしたように感じた。間宮さんのアイス券あげてしまったよ。
一人はお見舞いって言うよりもうほぼドックに入り浸り。何するでもなくずっと傍にいるから邪魔にはならないけれど当の入渠者本人が困った顔してるからどうしようかなって思ってる。離れろって言ったら爆撃されそうだし。
こんな状態でこのうち誰かを出撃なんて、そんな危ないことはしたくない。
「……はあ……まったく、あの人たちは」
そういう霧島さんだってこの前榛名さんが中破で戻ってきた時、金剛さんが怪我して戻ってきた時の比叡さんと同じくらい動揺してたのを憶えてるかい。隠そうとしていたけれどばれてるからね。上のお姉ちゃん二人も苦笑いしてたからね。にしても、大丈夫だから、って入渠を拒んでる榛名さん担ぎあげた時はとても吃驚した。一緒に出撃してた長門さんがなるほど参考になるって言っていたのが記憶に新しい。金剛さんから聞いたよ。あの後ひと悶着あったんだって。ここの責任者としてそこのところ詳しく知りたいので良い機会だから報告をs
「失礼します!」
霧島さんらしくない乱暴な扉の締め方であった。
扉がミシィって言っている。実は肉体派は力の加減を忘れないでほしい。この前みたいに壊されたらたまったものではない。修繕費だって安くはないのだ。
息をつく。
これだけが理由ではない。海域に潜水艦もいると解った以上、軽巡や雷巡を編成に入れなければならないから、そちらの育成に時間を割かなければならない。現に、北上さんを旗艦とした第一艦隊を攻略済海域の残党討伐に向かわせている。そのせいで大井さんの機嫌がすこぶる悪かったのだけれど。仕方ない。北上さんは既にハイパー北上様だけれど、大井さんはハイパーまでまだまだだ。もう少し鍛えてからじゃないと北上さんと一緒には出来ない。見つけるのが遅いからよ。と言われても、大井さんも出てくるのが遅いと思う。そう言わなかったけれど顔に出ていたのかにこりと笑顔を向けられた。怖い。北上さんに言いつけてやろう。
大井さんだけではなく、最近艦娘たちからの扱いが雑になってきている気がするけど、そこらへんどうなのだろう。どう思う。
こんこんこん。今度はみっつ。名だけ告げるそれに、はい、と応える。
「提督。あまり皆をからかうのはいけませんよ」
違いますよ鳳翔さん。事実を言っただけです。
「それがいじわるだというんです」
霧島さんとすれ違ったらしい鳳翔さんは、苦笑してお盆を置き、履物を脱いでいる。つい先日畳にしたので提督室は土足厳禁だ。霧島さんは入口付近に立っていたので畳には上がっていない。
お茶菓子と、わざわざ淹れて来てくれたお茶をちゃぶ台の上に置いた鳳翔さんに礼を言う。紅茶も美味しいが、日本茶もやはり、美味しい。
書類は床にどけておいた。
首尾はどうですか。
「ぽつぽつとお話していたのでたぶん大丈夫ですよ」
それは僥倖。少しは表情筋が柔らかくなればいい。
いつもありがとうございます、鳳翔さん。
ちゃぶ台に、お茶菓子に、日本茶。畳。そして鳳翔さん。落ち着くのは日本人だからであろうか。
ソファでうたた寝も非常に素晴らしいものだが、これはこれの素晴らしさがある。
そう思わないか。
「ところで提督」
何かな、鳳翔さん。
鳳翔さんは、胡坐をかいたこちらの、その懐を見ながら苦笑を深めた。
「電ちゃん、苦しそうですよ」
ぬくくて素晴らしいです。
秘書艦兼ほっかいろとして書類処理をし始めてからずっと抱え込んでいるその茶色い頭に頬を乗せてそう言った。
「あの、司令官さん、そろそろ放しt」
いやです。
「提督……」「はうぅ……」