とらないで



寝息を立てる姿。
その身体に掛けられた制服の上着。
どうして。
わたしじゃ、ないの。








心臓がぐるりと回る。








締め付けられる感覚で意識が浮上した。
異変。そう一瞬思って身体を固くするけれど、すぐに力を抜く。
瞼を薄く透かす木漏れ日、明るい茶色の綺麗な髪。外壁に切り取られた空、見慣れた朱。澄んだ空気に混じる、貴女の匂い。腿にかかる、重さ。わたしを囲む腕。身体の前面を覆う、ぬくもり。
間違えるわけがない、人。

「シンクさん?」

寝起きで掠れてしまった声。貴女の名前。
肩口に埋められた顔は上がらない。声も上げない。身動ぎもしない。ぎゅっと腕の力はかわらない。
珍しい、かもしれない。逆の位置にされることは多いけど、こんな風に抱き着いてくるのはあまりない。と、思う。
もう一度呼びかけても何の反応もなし。
デュース。
いつもの声が聞こえない。特別な音が届かない。
どうしたんですか。
答えがこない。推測もない。
それでも背中をゆっくり擦れば、ぎゅう、腕の力が余計にこもった。少し苦しいけど、好きにさせる。好きさせたい。
呼吸を聞きながら、視線を巡らせる。見た目以上に引き締まった背中。新緑の芝生。青々した木々。厳かさを感じさせる外壁。遠い空。
落とした視線に、引っかかる。朱。わたしのでも、貴女のでもない。

「上着?」

びくりと触れた身体が跳ねたのがわかった。
ぎゅう。背に回った手が、布地を掴んだのがわかった。
少し待ったけど何も言ってこない。同じように腕で囲って、ちょっと力を込めた。
どうしたんですか。
問いかけに答えはない。応えもない。
困りました。隣に、投げ置かれた、と言ってもいい、ちょっと痛んだ制服の上着。上のきょうだいの物。言葉遣いと裏腹に、やっぱり優しい人の物。
たぶん、座ったまま寝入ってしまったわたしを起こそうかどうか考えて、起こさずに、それでも上着をかけてくれたんでしょう。
蝶番が軋む音。震える背中を撫でて、視線を向けた先。

「オウ、デュース起きたか、こんなとこで寝てっと風邪ひくぞコラ」

陽の光の下が、似合う人。
上着の持ち主が笑って、そうして、わたしの、わたしの膝の上を見て首を傾げてこちらに向かってくる。

「シンク、何してんだァ?」

答えはない。答えを知らない。
囲った腕は、解かれない。

「腹でも痛ぇのかオイ」
「ちょっと、その、色々あるみたいで」
「アァン?」

黙ったままの人の代わりに、苦く笑う。
視線で示した隣の朱。

「上着、ありがとうございますナインさん」

眉が下がる。

「本当は手渡ししたいんですが、あの、こんな状態なので……すみません」
「おお、気にすんな」

長躯を屈めて上着を拾い、翻るように着こんだナインさんは、もう一度わたしを、わたしにくっついている人を、見る。
眉根が寄っているのは、色々考えているから。それが十秒も続かなかったことにちょっとだけ、笑ってしまった。
デュースに任せとけばいいか。キングたちもそう言ってたしな。
そういう認識ですか。どういう認識でしょうか。良いのか悪いのか、わからない。
離れていく背中を見送って、蝶番が軋む音。
また、葉が揺れる音と、呼吸の音。

「シンクさん」

返事はない。反応もない。
けれど、聞こえてはいると思うし、聞いてくれてもいるでしょう。
こういう時の貴女は、わたしのことしか、見ていない。いつも以上に。わたしのことしか考えていない。いつもの様に。
でも、いつもと違う。たまにある。貴女の、まだ、よくわからないところ。

「ナインさんは、上着、掛けてくれたんです」

静かに、小さく、語りかける。
今のことを、伝える。わたしが思うことを伝える。

「妹を心配してくれる、優しいお兄さんですね」

ね。シンクさん。
だから。

「そう思いませんか?」

そんな風に、怖がらないでください。
やだ。
耳を澄ませてなければ聞こえないくらいの、小さな声を得て、やっぱり、そう思う。
いつも。きょうだい以外には。たまに。きょうだいであっても。まれに。どうしようもなく。
貴女が想っていることはわかりません。けれど。

「シンクさん」

離れませんよ。

「好きですよ」

離れたくないです。

「大好きです」

だって。わたしの。貴女は。

「シンクさん」

たったひとりの特別ですから。



マザーと、きょうだい。
それから。もうひとつ。

inserted by FC2 system